日本語で読めるクロソウスキー関連の文献

日本語で読めるクロソウスキー関連の文献(情報お待ちしております)


注:入手困難なものも含みます。
夜想22「特集 クロソウスキー」、ペヨトル工房、1987. 特集雑誌。クロソウスキー自身のものとしては、「エロス・ベルゼバブ株式会社」、「条件節と帰結節」(抄訳)、「アラン・アルノーとの対話」(『ルサンブランス』に収録)があります。その他、豊崎光一氏と浅田彰氏による対談や興味深いエッセー多数。
ユリイカ「増頁特集 クロソフスキーの世界」1994年7月号、青土社 小説『中断された召命』の堀江敏幸氏による冒頭部分訳の他、様々な重要な論文の翻訳、論考があります。クロソウスキーについて知りたい方にはぜひ読んでいただきたい、充実の特集雑誌。
ドゥニ・オリエ編『聖社会学』、兼子正勝・中沢信一・西谷修訳、工作舎、1987. 知る人ぞ知る「社会学研究会(コレージュ・ド・ソシオロジー)」のドキュメントです。この稀有な運動の全貌を明らかにしようとした編者オリエの功績は素晴らしいものがありますが、これを翻訳された方々の功績もはかり知れません。クロソウスキーに関するものは少ないですが、初期の論文「悲劇」「マルキ・ド・サドと革命」が読めます。
ジョルジュ・バタイユ他『無頭人(アセファル)』、兼子正勝・中沢信一・鈴木創士訳、現代思潮社、1999. 「社会学研究会」と並ぶ、第二次大戦前夜におけるバタイユ主催による思想活動のドキュメントの翻訳。迫り来るファシズムの脅威からニーチェの思想を奪還しようとした壮絶な思想的格闘の軌跡。クロソウスキーのものとしては「怪物」「世界の創造」「キルケゴールによるドン・ジョヴァンニ」などがあります。
デリダ、ドゥルーズ、リオタール、クロソウスキー『ニーチェは、今日?』林好雄・本間邦雄・森本和夫訳、ちくま学芸文庫、2002. 1972年にスリジー=ラ=サルで行われたニーチェについての討論会から左の4人の発表を選んだもの。なぜこの年に、ニーチェを巡ってこのような討論会が行われたのかということにも踏み込んだ解説がなされており、クロソウスキーの「悪循環」と題する講演にも詳細な訳註と解説が施されています。
アラン・アルノー『ピエール・クロソウスキー』、野村英夫・杉原整訳、1998. クロソウスキーについて書かれた単行本のなかで、日本語に訳されたものとしては現在唯一のもの。特に、日本人には分かりにくいクロソウスキーの神学的側面が詳細に語られています。巻末の小伝や目録はかなり充実したものです。
清水徹・出口裕弘編『バタイユの世界』、青土社、1995. バタイユの思想を、様々な角度から捉えようとしたアンソロジー。バタイユ自身の論文の他、コジェーヴやデリダ、フーコー、バルトなどによるバタイユ論が集められています。クロソウスキーに関しては、「ジョルジュ・バタイユの交換におけるシミュラークルについて」という論文が収録されています(『ルサンブランス』収録)。この本の白眉は何といっても、1944年にバタイユをめぐって行われた『討論 罪について』でしょう(年譜はこちら)。バタイユについての「基本命題要旨」の発表を、クロソウスキーが担当しています。
ジョルジュ・バタイユ『文学と悪』、山本功訳、筑摩書房、1992. バタイユの文学論。「サド」の項でクロソウスキーの名が登場します。私が最初に彼の名前に接したのが、この本でした。(詳しくは、このページについてをご覧下さい。)
同『ジョルジュ・バタイユ著作集 詩と聖性〜作家論2〜』、山本功訳、二見書房、1986. 「極限の彼方へ」というクロソウスキー論があります。短いものですが、『ロベルトは今夜』のもつ「限界を踏み越える力」を的確に評価したものです。「『ロベルト』が表現しているのは、あらゆる予想に反して法が犯される神々しい瞬間、つまり、エロティスムが、獣性の対極にあって、同時に呪いと奇跡に属する瞬間なのである」(p.79)。
ミシェル・フーコー『ミシェル・フーコー思考集成U 文学・言語・エピステモロジー』、筑摩書房、1999. 1964年の「新フランス評論」誌に発表された、「アクタイオーンの散文」というクロソウスキー論があります。フーコーらしい難解な文章ですが、非常に重要な論考です。クロソウスキーの作品の根底に「侵犯の力」があることを見て取っているのはバタイユと同様ですが、それが言語と絡めて緻密な論が組み立てられているところに、フーコーの卓見が伺われます。なお、ここに収録されている翻訳は、フーコー『外の思考』(朝日出版社、1978年)所収の豊崎光一氏の訳に、編者の小林康夫氏が若干の変更を加えたものです。
同『ミシェル・フーコー思考集成U 文学・言語・エピステモロジー』、筑摩書房、1999. 1964年の「エクスプレス」誌に掲載された「血を流す言葉」(Les mots qui saignent)という論文があります。同年に出版されたウェルギリウスの『アエネーイス』のクロソウスキーによるフランス語訳についての文章です。日本語の翻訳は兼子正勝氏。
ジャック・アンリク『クロソフスキー画集』、小倉正史訳、リブロポート、1991. 絶版となって久しいようですが、クロソウスキーの絵画作品の全容が一望できる貴重な一冊。
『クロソフスキー展 Hommage à Klossowski』シブヤ西武シードホール記念本、ペヨトル工房、1988. 1988年に開かれた「クロソフスキー展」の記念本。クロソウスキー自身の日本へのメッセージが添えられています。出展された作品の紹介の他、浅田彰氏によるエッセイ、用語解説、年譜があります。
ジル・ドゥルーズ『意味の論理学』、岡田弘・宇波彰訳、法政大学出版局、1987. 付論II「幻覚と現代文学」に、「クロソウスキーまたは身体=言語」という重要な論考があります。初めてこれを読んだ私にとって、この論文は非常にショッキングな内容でした。
同『差異と反復』、財津理訳、河出書房新社、1992. クロソウスキーよりも一世代ほど後に属するドゥルーズですが、両者は主にニーチェをめぐる読解に関して、互いに影響を与え合っていました。1968年に書かれたこの本にも、ニーチェの「永遠回帰」をめぐるクロソウスキーの解釈の影響が如実に反映されています。
ジャック・デリダ『歓待について パリのゼミナールの記録』、廣瀬浩司訳、産業図書、1999. 95年から96年にかけて行われた、デリダのゼミナールの一部を収録したもの。ここではその名の通り「歓待」の問題系が語られていますが、「歓待の歩み=歓待はない」という箇所でクロソウスキーの『歓待の掟』が取り上げられています。
大庭健・鷲田清一編『所有のエチカ』(叢書 倫理学のフロンティアV)、ナカニシヤ出版、2000. 「所有」の問題系がそれぞれの論者によって展開されていますが、冒頭の鷲田清一氏による「所有と固有」というエッセイに、クロソウスキーの『歓待の掟』について触れられている箇所があります。(この中の一部は、94年の『ユリイカ』のクロソウスキー特集にすでに収録されています。)
ルネ・シェレール『歓待のユートピア 〜歓待神礼賛〜』、安川慶治訳、現代企画室、1996. 『歓待』というキーワードをめぐって書かれた、非常に興味深い本です。クロソウスキーの『歓待の掟』に関する文章もさることながら、ホメーロス、フローベール、ジュネ、パゾリーニなどについて書かれた文章も一読の価値ありです。
市田良彦『窃視と露出』、「現代思想 特集 器官なきセックス」1989年1月号、青土社 フーリエ論と絡めて『歓待の掟』に触れた短めのエッセイです。
松浦寿輝『謎・死・閾』、筑摩書房、1997.「悲劇とパロディー クロソウスキー」というテクストがあります。
伊藤俊治『愛の衣裳』、筑摩書房、1990. 「聖なる欲動 ピエール・クロソウスキーの世界」という章があります。絵画を織り交ぜながら、『歓待の掟』や『ディアーナの水浴』における身体の問題について書かれたものです。
丹生谷貴志『女と男と帝国―グローバリゼーション化の哲学・芸術』、青土社、2000. 94年の『ユリイカ』のクロソウスキー特集に収録されているものと同内容の文章があります。『歓待の掟』を「家事小説」として読もうとする試みは面白い。
豊崎光一『文手箱』、書肆風の薔薇、1986. 文学・芸術に関する論考を集めた「風の薔薇叢書」の一冊です。「クロソウスキー(という)ニーチェの肉体」「シミュラクルとしての絵画」という、クロソウスキーに関する二つのエッセイがあります。どちらも、『わが隣人サド』『ディアーナの水浴』(共訳)『ルサンブランス』(共訳)などの訳書のある豊崎氏の確かなクロソウスキー読解を伺わせるものです。
岡部あおみ『アート・シード:ポンピドゥ・センター美術映像ネットワーク』、リブロポート、1993. パリのポンピドゥ・センターの国立近代美術館の一角にあるシネマ・ミュゼでの美術ドキュメンタリーを通した現代アーティスト論。「猥褻さへの誘惑」というクロソウスキー論があります。アラン・フレシェールの『ピエール・クロソウスキー、霊息(いき)の芸術家』(1982)を元に書かれています。
寺山修司『月蝕機関説』、河出文庫、1993.「浴室の覗き男 クロソフスキー」という短い文章があります。寺山修司はズッカ監督の映画『ロベルト』を観ていたようです。
山口椿『ロベルトは今夜』、トレヴィル、1989.クロソウスキー作品を翻案し、戯曲化したもの。
『芸術新潮』、新潮社、1994.7. 南河三治郎氏による「アーティストの"愉しい我が家"―39―「このごろは少年ばかり描いている」ピエール・クロソウスキー」というルポがあります。日本人が彼のアトリエを取材したケースは珍しいのではないでしょうか。二人のやり取りがケッサク。
『国文学 解釈と教材の研究』、学灯社、1989.12. 丹生谷貴志氏による「ピエール・クロソウスキー「バフォメット」――神々の精液(幻想文学の劇)」という論考があります。
『大谷学報』、大谷学会、1986.6. 須藤訓任氏による「言語と反省――クロソウスキー「ディアナの水浴」より」という論文があります。
『理想』、1984.8. 同じく須藤訓任氏による「わたしの父としてはすでに死んでおり、わたしの母としては生きつづけ……現代フランスにおけるニーチェ」という論文。ニーチェを仲立ちとしたクロソウスキーとデリダの思想の比較検討が興味深い。
浅田彰・島田雅彦『天使が通る』、新潮社、1988. 対談集。ダンテやニーチェ、ヴェンダースに関する話題のなかで、浅田氏がたびたびクロソウスキーの名前を挙げています。文庫化されていますが、現在は単行本・文庫ともに絶版のようです。
浅田彰『20世紀文化の臨界』、青土社、2000. 上で紹介した、夜想22「特集 クロソウスキー」のなかの豊崎氏との対談と内容は同じです。
『未来』、未来社、No.354・357、1996. 兼子正勝氏による「シミュラークルについて(上・下)」という論文があります。クロソウスキーとシミュラークルとの関係について知りたい人は必読。
『すばる』、集英社、2001.10 兼子正勝氏による「ピエール・クロソウスキー追悼――あるいは映像(シミュラークル)の黄昏)」という追悼文。

トップページに戻る