J.デリダの筆跡学        第9回 言語態 小森 謙一郎

1. 二つの署名


(注記 : この−口頭の−の−書かれた−テクストは、学会開催以前に「フランス語諸哲学会協会」宛てに届けられねばならなかった。そのような発送物はしたがって、署名されねばならなかった。それを私は行った、そしてそれをここに模倣=偽造する[contrefais]。どこに?そこに。J.D.)

(中略)

 しかし、正確には、手書きの「デリダの署名」と打たれた「J.Derridaの文字」である。「J.Derridaの文字」もまた署名なのだとすると、ここには少なくとも二つの署名があることになる。署名の差異、差異の署名。だとすればこのとき、署名そのものは一体いかなるものでありうるのか?なぜ「私」はこれほどまで執拗に署名しなければならないのか?何が「私」をして署名させるのか?そもそも「私」とは一体誰なのか?「J.D.」とは一体何者なのか…?

 二つの署名はこうして全てを宙吊りにしてしまう。したがって私たちはその差異から、手書きの署名と打たれた署名の差異から、はじめなければならない。

2. 二つの手

「人間自身が「行動する[handelt]」のは手[die Hand]を通してである。なぜなら手は、言葉[Wort]とともに、人間の本質を顕示するもの[Wesenauszeichnung]であるからだ。人間のように言葉(ミュトス)(ロゴス)を「もつ」存在者だけが、「手」を「もつ」ことができるし、また「もつ」ことができねばならない。[…]言葉からのみ、言葉とともにのみ、手は生み出される。人間が手[H_nde]を「もつ」のではなく、手が人間の本質を占有するのである、なぜなら手の本質領域としての言葉は、人間の本質根拠であるのだから。記入された言葉、したがって眼差しに自らを提示している言葉は、書かれた言葉、すなわち書字[Schrift]である。書字としての言葉はしかし、手書きの文字[Handschrift]である。」

 ハイデガー『パルメニデス』からの引用である6。これは1942-43年、つまり「手前存在性と手元存在性を分析しながらも手について主題的に語ってはいない『存在と時間』[1927]よりずいぶん後で、とはいえ手を主題とする『思惟とは何の謂いか?』[1951-52]よりは十年早く」7行われた講義録である。デリダ「ハイデガーの手」は、手に関するハイデガーの言説をGeschlechtの問題圏8と絡めつつ分析した論文であるが、このなかでデリダは上の引用箇所、とくに「人間が手を「もつ」のではなく、手が人間の本質を占有する」という部分に着目しつつ以下のように述べている。

「この補足的説明は、「もつ」の構造に、この語をハイデガーは括弧に入れ、その関係を逆転すべく提示しているわけだが(人間が手をもつのではなく、手こそが人間をもつ)、一見そうみえるように、そうした「もつ」の構造にのみ関わっているわけではない。この説明は、複数形と単数形の差異に関わっている、つまりnicht H_nde, sondern die Hand[複数形の手(H_nde)ではなく単数形の手(die Hand)]なのである。ロゴスを通じて、(das Wort)を通じて人間に生じるもの、それは唯一の手[une seule main]のみである。複数の手[les mains]、これはすでに、あるいはいぜんとして、器官的ないし技術的な散逸[dispersion] [傍点引用者]なのだ。」9

 「唯一の手」あるいは手の唯一性。ハイデガーによれば、これこそが「人間の本質を占有する」。ばらばらに作業する手は、手に固有の仕事を担うことができない。手の作業が本来的な「手−仕事[Hand-Werk]」であるためには、「両手は組み合わされる」のでなければならない10。つまり「手の本質は、身体的な掴む器官として規定されたり、あるいはそうした掴む器官によって説明されたりすることはできない」11というわけだ。ここから、ある種の人間中心主義が帰結する、いやむしろ、その手のヒューマニズムがこうした言説を導いている、というべきかもしれない。いずれにせよハイデガーは次のように述べている。「いかなる動物も手をもつことはない、足や蹄や鉤爪から手が生じることは決してない」12。「例えば猿は掴む器官を所有しているが、しかし手をもってはいない。手は一切の掴む器官、つまり前足、鉤爪、蹴爪などとは、無限に、すなわち本質の深淵を隔てて、異なっている」13。「複数の手」は、それゆえ「器官的」なのであり、また動物的なのであって、これは手の本来性を、その唯一性を「散逸」し、「人間の本質」を脅かすのである。手の複数性は、手の仕事を扱う(handeln)ことができないのだ。

 だが、そうだとすれば「手−仕事」とは一体何か?ハイデガーはこう答えている。「手は掴んだり捕えたりするだけではない、押したり突いたりするだけではない。手は差し出したり受け取ったりするが、それは諸々の物ばかりをではない、手は他の手のうちに自らを差し出し、自らを受け取る。手は保つ[h_lt]。手は担う[tr_gt]。手は記す[zeichnet][…]。これら一切のことが手であり、本来的な手−仕事である」14。「保つ」こと、「担う」こと、「記す」こと。これらが手の仕事である。何をか?「自らを」である。すなわち「人間の本質を占有する」ところの手を、である。ところでハイデガーによれば、手は言葉と共−存在的なのであった(「言葉とともにのみ、手は生み出される」)。したがって「記入された言葉」が本来的に記入するものも、やはり「自ら」、すなわち「人間の本質根拠である」ところの言葉そのものでなければならない。それは「人間の本質」を、手と同じように、手と共に、「保」ち「担」い「記す」のでなければならない。したがって、つねに「書字としての言葉は、手書きの文字である」のでなければならないのだ。「手書きの文字」だけが「人間の本質を顕示するもの」でありうる。

 しかしながら、この手の仕事も、あるもう一つの脅威に、すなわち「技術的な散逸」に晒されている。「自らを差し出し、自らを受け取る」手の統一性、唯一性は破壊されようとしている。「人間の本質」は見失われつつある。以下がハイデガーの論告である。

「現代の人間がタイプライター[Schreibmaschine]と「共に」書き、この機械の「内へ」「口述する[diktiert]」(「詩作する[Dichten]」と同じ言葉だ)のは偶然ではない。書く方法上のこうした歴史[Geschichte]は、増えつつある言葉の破壊[Zerst_rung]の原因の一つである。言葉が去来するのはもはや、書く手を通して、本来的に行動する手を通してではなく、手による機械的な圧力[Druck]を通してである。タイプライターは手の、つまり言葉の本質領域から書字を引き離してしまう。そして言葉自体は何か「打たれた[Getipptem]」ものになってしまう。[…]機械によって書くことは、書かれた言葉の領域における手の地位を奪い、言葉を交通の手段[Verkerhsmittel]へと格下げする。さらに機械による書字には、筆跡[Handschrift]とともに性格[Charakter]を隠蔽するという利点もある。機械による書字においては、あらゆる人間が同じような外観を呈している。」15

 「言葉の破壊」とハイデガーは言う。「手を主題とする『思惟とは何の謂いか?』」の翌53年、ハイデガーは1935年に行われた講義『形而上学入門』を公刊することになったが、その序文には次のような一文が読まれる、すなわち、「口述されたものは、印刷されたもののなかでは、もはや語らない[Das Gesprochene spricht nicht mehr im Gedruckten]」と16。したがって「口述されたもの」と「印刷されたもの」との間には、人間の「手」と動物の「掴む器官」との間にあるような、ある絶対的な隔たりが、無限で本質的な「深淵」が横たわっている。その次の一文:「そこで、それを補うために[zur Aushilfe]、内容上の変更を加えないで、長文を分解し、段落を増やし、繰り返しを削り、不注意な誤りを除き、曖昧な所を明確にした」17。「内容上の変更を加えないで」という箇所を強調したのはハイデガー自身である。しかしここでもまた「一見そうみえるように」、ハイデガーは何の変更も加えなかったわけではない。それどころか彼自身が述べているように、形式上は大きな変更を加えている、つまり手を入れているのである。「手は保つ」。手は助け「補う」。手は介入する。どこにか?もちろん、「口述されたもの」と「印刷されたもの」との間に、である。そして、ここがまさに「手書きされたもの」が占める場所にほかならない。手のエクリチュールは、「書かれた言葉の領域」においては、「口述されたもの」の「内容」を「破壊」せずに「保つ」ことができるという点で、すなわち、パロールの「特徴[Charakter]」を「隠蔽」せずに「顕示」することができるという点で、ある特権的な「地位」を占めているのである。これに対し「書く−機械[Schreib-maschine]のなかには、言葉の領域へのメカニズムの侵入がある」18。したがってここには、パロール/エクリチュールという二項対立の下に、さらに、良いエクリチュール/悪いエクリチュールというヒエラルキー構造があるわけだ。

 しかしながら、「タイプライターのエクリチュールもまた手によるエクリチュールなのだ」とデリダは言う19。「手書きのもの」であれ「印刷されたもの」であれ、「口述されたもの」に対する「書かれた言葉」としては、原理的には等価であるはずである。この良い/悪いという価値を決定しているものは何か?なぜ一方が良く、他方が悪いのか?それは、もちろん「手は保つ」からである。「口述されたもの」を「保つ」からである。言葉のなかでも「口述されたもの」こそ、最も本来的に「人間の本質を顕示するもの」であるからだ。「口述する[Diktieren]」は「詩作する[Dichten]」と「同じ」である、と「思索する[Denken]」ハイデガーは言う。これらの統一性を、唯一の手が、手の唯一性が「担う」のだ。「したがって、注意せねばならないパラドクスは、自然的で普遍的なエクリチュール、叡知的で非時間的なエクリチュールは、隠喩によってそのように名付けられている、ということである」20(傍点引用者)。つまり究極的な審級があるのは、つねに「口述された」詩作=思索のうちにであって、実際には「書く」という「歴史=出来事[Geschichte]」が始まったときから、「言葉の破壊」はすでに始まっているのであり、「書く機械」は、それが「増えつつある」ことを「顕示する」がゆえに糾弾されねばならないのだ。手が評価されるのは、それが「言葉の破壊」に「耐える[halten=tragen]」からにすぎない。「手書きされたもの」の「印刷されたもの」に対する優位は、「口述されたもの」の「書かれたもの」に対する優位が転換されたものにすぎないのである。いわば一つの口が二つの手の価値をすでに決定しているのだ。したがって「手書きに対する一見積極的な評価」にもかかわらず、「手とのまわりでは」、つねに「ロゴス中心主義と音声中心主義が、ハイデガーのきわめて持続的な言説を支配している」というわけである21。

 しかしながら、タイプライターが「筆跡とともに性格を隠蔽する」ということ、それゆえ「あらゆる人間が同じような外観を呈している」ということ、このことは、やはり事実であると思われる。この点に関し「つねに結集(Versammlung)を特権化する」22ハイデガーの唯一の手が「記す」ことのなかったこと、すなわち、「ペンでしか書くことのできなかった」23、このいかにもロゴス男根中心主義的な哲学者が決して本来的には思惟しえなかったこと、それはいかなる問題であろうか?デリダは次のような問いを差し向けている。

「…愛撫については、欲望については、決して何も語られていない。人が愛するの[fait l'amour]は、人間[l'homme ; 男性]が愛するのは、単数の手[la main]によってであろうか、それとも複数の手[des mains]によってであろうか?そしてこの点における性的差異はいかなるものであろうか?ハイデガーは次のように反論すると想像される、すなわち、そうした問いは派生的なものである、あなたが欲望とか愛とか呼んでいるものは、から手なるもの[la main ; 単数の手]が到来することを前提としている、そして私が手についてほのめかしたからこそ、結婚[alliance]や誓い[serment]において、与える、自らを与える、約束する、自らを任せる、委ねる、引き渡す、契約する、そのような手について私がほのめかしたからこそ、愛するとか、愛撫するとか、欲望するとか、通俗的な仕方で呼ばれているものを思考するために必要なこと全てを、あなたは所有しているのだ、と。」24

 しかし残念ながら、「ハイデガーの手」のなかでは、その素描はあるものの、こうしたプロブレマティックについて、とりわけ手と「性的差異」の問題圏について、デリダは突き詰めた論を展開しているわけではない。とはいえ、私たちは次のことを知っている、すなわち、「ニーチェは西洋の思索家のなかでタイプライターをもった最初の人だった」25ということを。そして、もちろん、タイプライターを打つためには、複数の手を、少なくとも手の複数性を、もっていなければならない。

 

3. 二つの性

「タイプライターを一つ購入しようと頭を悩ませ、その発明者であるコペンハーゲン出身のあるデンマーク人と連絡をとっている」26。

 1881年8月14日、ペーター・ガストに宛てて、ニーチェはそう報告している。ところで、その同じ手紙のなかで、ニーチェは自らの病気に言及しつつ、自身を機械になぞらえて、「この僕は破裂する[zerspringen]かもしれない機械の一部なのだ!」27と書いている。しかし、さらにその数週間後、友人の作品の完成を祝うため、やはりペーター・ガストに宛てた手紙のうちには、次のような文章が読まれる:「僕の著作には、いつも僕の羞恥心にふれる[meine Scham beleidigt ; 恥部を侮辱する]ような何かがある。僕の著作は、最も必要な諸器官[Organe]さえ意のままにできず、悩んでいる不完全な被造物の模写[Abbilder]なのだ−僕自身がそっくりそのまま、未知の力が新しいペン尖[Feder]を試すために紙の上に走り書きする[zieht]ような、そうしたなぐり書き[Krikelkrakel ; 読めない筆跡]とでもいったように思えることがしばしばあるのだ。」28

 どう考えるべきであろうか?まずニーチェは「機械の一部」である。「大多数の人々にとっては、操作が難しいところの、ぎこちない陰鬱な、ぎしぎしきしむ機械」である。それは「知性[der Intellect]」の別名なのだ。「悦ばしき知識」をもつニーチェは、「大多数の人々」、すなわち、この「機械を運転し」「ものごとを真面目に取る」人々から一線を画そうとするが29、しかし彼もまたその「一部」であることにかわりはない。ニーチェはこのことを自覚している。とはいえ、この「機械」は「破裂するかもしれない」。というのも、それは「未知の力」によって、「新しいペン尖」によって、脅かされているからだ。この新たな力は「羞恥心にふれる」。この新興勢力に対し、ニーチェは「悩んでいる不完全な被造物」にすぎない。それはニーチェをして「頭を悩ませ」、自らが「最も必要な諸器官さえ意のままにできない」ことに気付かせる。そして最後に、ニーチェは、「自身がそっくりそのまま」「なぐり書き」である、と言う。彼はもはや「機械の一部」ではなく、しかし、かといって「新しいペン尖」を「操作」できるわけでもない。彼は判読不可能な痕跡である…。

 こうしたことについて、どのように考えるべきであろうか?タイプライターという新たな機械を導入しようとしている、ちょうどその時にそう書いているということ。あるいはまた、永遠回帰の思想が、「まだ考えてもみなかったようなそんな思想がたち昇ってきた」30まさにその瞬間に、以上のような手紙を差し出しているということ。こうしたニーチェのスタイルについてどのように考えることができるだろうか?それは「性的差異」の問題といかなる関係をもちうるのだろうか?

 「文体=尖筆[style]の問題、それはつねにある尖った物体を試すこと[examen]、それが圧迫している[pesant]ということである」31。「署名 出来事 コンテクスト」の翌年、『余白』が出版されたのと同じ72年、フランスのスリジィ・ラ・サルで開かれた『ニーチェ今日?』というコロックにおいて、デリダは、自身はじめてのニーチェ論『−ニーチェの』を発表した。衝角(_peron)とは、デリダによれば、「帆を張った船の船首部の水切り、rostrum[船嘴]、前方へ突き進み、逆らう海面を引き裂いてその攻撃を打ち破る突出部[saillie]」であるが、「岩の突端もまた_peronと呼ばれ、それは「港の入り口で波を砕く」ものである」。さらに「_peronは、フランク語あるいは古高ドイツ語ではsporo、ゲール語ではsporであり、英語ではspurと言われる。『英語の単語』のなかでマラルメはこのspurという語を、軽蔑する、押し返す、軽蔑を込めて投げすてる、という意味の動詞spurnと関係づけている。[…]英語のspur、すなわち_peronは、痕跡[trace]、航跡[sillage]、しるし[indice]、マーク[marque]といった意味のドイツ語Spurと「同じ語[m_me mot]」である」32。

 文体=尖筆[style]は、そういうわけで「突き進み」「押し返す」、それは攻撃し防御する、攻撃することによって防御し、防御することによって攻撃する。それは「防御の武器[arme de parade ; 見せかけの武器]」33である。いや、さらに言えば、それは攻撃/防御という二項対立そのものを与える、つまり「投げ捨てる」のだ。衝角は、したがって、単純に攻撃したり防御したりするだけではない。それはむしろその戦いの場そのもの、すなわち、「船首部の水切り」と「逆らう海面」の間にある「航跡」でもあるだろう。とはおそらくそのようなものではないだろうか。デリダはニーチェのテクストにおける「女性、真理、去勢」といったモチーフに着目しつつ読解を試み、ニーチェのを以下の三つに分類している34。

1.女性は虚偽の形象ないし力として非難され、卑しめられ、軽蔑される。このとき、その非難のカテゴリーは、真理の名において、独断的形而上学の名において、真理と男根とを自己に固有の属性として主張する信じやすい男性の名において、生みだされている。こうした審級から書かれた−男根ロゴス中心主義的な−テクストは非常に多い。

2.女性は真理の形象ないし力として、哲学的でキリスト教的な存在として、非難され、軽蔑される。女性は、真理と同一化されるにせよ、自分に有利なようにを信じることなく用いるごとく、真理から距離を隔てて真理を用いて戯れるにせよ、奸計と素朴さとによって(奸計は素朴さによってつねに汚染されている)、いぜんとして真理のとのうちに、男性ロゴス中心主義的空間のうちに、とどまっている。[…]ここまでは、女性は二度にわたって去勢である、すなわち真理であるとともに非−真理である。

3.女性は、以上の二重の否定を超えて、肯定的、隠蔽的、芸術的、ディオニソス的な力として、認められる。女性は男性によって肯定されてはいないが、しかし女性自身のうちに、また男性のうちに、自らを肯定している。

 「テクストの異種性(h_t_rog_n_it_)」とデリダは言う。これら三つのスタイル、これら「三つの型の言表」は、「三つの価値定立でもあり、三つの異なった立場からもたらされている」35。つまりニーチェは少なくとも三つのをもっているということだ。

 第一にニーチェは、あまりに男性的である。「女性は自分を放棄し[giebt sich weg]、男性はこれをとってわが身に加える−思うに、人は、この自然的対立を、いかなる社会契約をもってしても、正義への最善の意思をもってしてさえも、乗り越えられないであろう。[…]そういう次第だから、貞節は、女性の愛に内包されているものであって、女性の愛の本質が把握されるところから結果するものだ」36。しかしながら「自分を放棄し」自らを与える「女性の愛の本質」は、ふりをする(sich geben ; se donner)ものでもある。それゆえ「女性は虚偽の形象ないし力として非難され、卑しめられ、軽蔑される」。「信じやすい男性」はそうした「虚偽」に我慢がならないのだ。「真理がそのヴェールを剥がされても、なお真理としてとどまるなどということを、われわれはもはや信じない」37。この点において、ニーチェは伝統的な男性的「知性」に奉仕する「機械の一部」である。

 とはいえニーチェはこのことには自覚的であった。「男性の愛は、実に所有しようとする意欲[Haben-Wollen ; もつ−意欲]であり、諦めや放棄などではない。[…]実際のところ、この「所有」の事実をなかなかおいそれとは認めない男性の抜け目ない猜疑心ぶかい所有欲こそが、男の愛を継続せしめる当のものなのだ。[…]男性は、女性がもはや彼のために「捧ぐ[hinzugeben]」べき何ものをももたなくなったということを、たやすく認めはしないものだ[giebt nicht leicht zu]」38。だとすれば真理は一体どうなるのか?「おそらく真理とは、自身の内奥[Gr_nde]を見せるがままにはしない、そうした女であるのだろうか?」39。ここでは真理は誤謬であり、女は真理である、「すなわち真理であるとともに非−真理である」。こうした一見フェミニスト的な主張は、しかし、真理/非−真理という「根拠[Gr_nde]」をもつ限りにおいて、「いぜんとして真理のとのうちにとどまっている」。いいかえれば、「フェミニスムとは、女性が男性に、独断的な哲学者に似ようとする操作[op_ration]であり、それによって女性は、真理を、科学を、客観性を、つまりあらゆる男性的な幻想とともに、これに結び付いている去勢の効果を要求しているのだ」40。実際ニーチェは「自分をある男の機能に、それもよりによってその男のうちでも発育の劣っている機能に化してしまい、このようにしてその男の財布か政策か社交性かになってしまうあの女たち」について語っていた41。「つまり、ニーチェが嘲笑を大いに浴びせているフェミニストの女性たちとは、実際には[en v_rit_ ; 真理において]、男性たちなのである」42。だがそうした「新しいペン尖」をもった女たちはまた、ニーチェの「頭を悩ませ」去勢する。そしてニーチェをして自らが「最も必要な諸器官さえ意のままにできない」「不完全な者」であることを想起させることになるだろう。

 それゆえ「ここまでは、女性は二度にわたって去勢である」。一方では男性が女性を攻撃し、他方では女性が男性を攻撃する。一方では男性が自らの真理を守り、他方では女性が自らの真理を守る。真理とはここでは性である。性そのものが武器であり、「防御の武器」である。「これらの武器は一方の手から他方の手へと循環し、一方の反対者から他方の反対者へと移っていく」43。男性性であれ、女性性であれ、性は、そのものとして、均質で同一的で還元不可能なものとして、永遠に回帰する。フェミニズムやジェンダー論が、生物学的に規定されたという概念に対し、文化的に生成するものとしてのセクシュアリティーやジェンダーといった概念をいかに導入しようと、それらをそのものとして一元的に考えている限り、事態は変わらない。それらは、その「素朴さ」において、「男性ロゴス中心主義的空間」のうちにとどまる。だとすれば、「人はもはや、女性を、あるいは女性の女性性(f_minit_)を、あるいは女性のセクシュアリティー(sexualit_)を、探究することはできない。たとえそれらを探究せずにはいられないとしても、既成の概念ないし知のにしたがってそれらを見い出すことは、少なくとも不可能である」44。そしてもちろん同じことが男性についても言えるだろう。

 したがって「以上の二重の否定を超えて」思考せねばならない。男性/女性、攻撃/防御、真理/虚偽、そういったもろもろの二項対立を超えて、あるいはむしろその内部で、そうした対立構造を可能にしている当のものをこそ考えねばならない。「われわれは不意にこう信ずる、−世界のどこかに、気高い英雄的な王者風の魂をもった女性がいるかもしれない、彼女たちの内では男性のもつ最善のものが性別を超えて具身の理想となっているがゆえに、答弁や決断や犠牲的行為をなす能力と覚悟、つまり、男性を支配する能力と覚悟を備えた女性がいるかもしれない、と」45(傍点引用者)。そうした「魂」をもった女性たちは、したがって、もはや純粋かつ端的に女性であるわけではない。彼女らは自らのうちに「男性のもつ最善のもの[das Beste vom Manne]」をもっている。それは、「性別を超えて[_ber das Geschlecht hinaus]」、画定された性というもの[das Geschlecht]を超えて、つまり男性/女性という区別の彼方ないし手前で、とはいえやはり「女性たちのうちに」、みいだされる。いいかえれば、女性は自らのうちに男性を肯定し、そのことによって自らを肯定している、したがって「女性自身のうちに、また男性のうちに、自らを肯定している」。

 それゆえ、この場合、「去勢は場をもたない」46。去勢というものが場をもつことができるためには、性というものの同一性が確定されていなければならない。というよりもむしろ、性というものが確定されているということ自体が、すでに去勢の効果なのだ。性別の異なる多くの男たち女たちがいるのではなく(この場合すでに去勢は起こっている)、「男たち」「女たち」のうちに多くの異なる性があるのだ。こうしたいわば「多性性(polysexualit_)」47こそが、あらゆる男性と女性の、二つの性の、したがってまた去勢の、可能性の条件であるだろう。それは本質的に決定不可能な戯れであるがゆえに、判読不可能な一種の「なぐり書き」のようなものであるだろう。しかし、あらゆる「私」のうちには、つねにその痕跡が残っているのではないか、実在しない痕跡として、「永遠回帰における差異と反復との同じもの性[la m_met_ de la diff_rence et de la r_p_tition dans l'_ternel retour]」48として。

かくしてデリダは言う。

「彼は、そのような去勢された女性であったし、そのような去勢された女性を恐れていた。  

彼は、そのような去勢する女性であったし、そのような去勢する女性を恐れていた。

彼は、そのような肯定する女性であったし、そのような肯定する女性を愛していた。

彼の身体の場所や彼の物語の態勢に応じて、同時的にであれ継時的にであれ、一度にこうしたすべてであった。

彼は、自らの内に、自らの外に、多くの女性と関わりをもっていた。」49  

 

4. J.デリダの筆跡学

 そういうわけで、たとえ実際には一本の手でペンを握っていようと、あるいは二本の手でタイプライターを叩いていようと、ニーチェは、少なくとも三つの手で書いていた。三つの手、すなわち、去勢され去勢する二つの「同じ一つの」手と、肯定する一つの「異なる多くの」手である。先の「二つ」は、「多性性」という差異の性を自ら去勢することによって、男性/女性という性の差異のうちに自ら去勢される。両性は、互いに他を否定することによって、互いに自らを肯定する、あるいは逆に、互いに自らを肯定することによって、互いに他を否定する。ここでは、肯定と否定とは果てしなく循環し永遠に回帰する。「性的差異」はこうして、二元的な否定性のうちに、否定的な二元性のうちに、閉ざされることになる。しかし、それにもかかわらず、残りの「一つ」は残る。去勢の痕跡として、痕跡の去勢の痕跡として、残ることなくして残る。「永遠回帰の他なる思想[autre pens_e du retour _ternel]」50。それは、肯定/否定という二元的否定性ないし否定的二元性の手前あるいは彼方で、過剰に肯定する。過剰−性を肯定し、性−過剰を肯定する。「性的差異」はしたがって、過剰の肯定へと、肯定の過剰へと、開かれることになる。ここでは、差異化が絶えず反復され、反復が絶えず差異化されるのだ。他性の多性があり、多性の他性がある。

 どういうことだろうか?こうした三つの手でもって、果たしてニーチェは何を書いたのか?

「ニーチェは、彼が書いたということを書いたのだ。彼はこう書いた、すなわち、エクリチュールは−まずもって自分のエクリチュールは−、根源的にロゴスや真理に従属してはいないのだ、と。そうした従属はある一つの時代[_poque]を通じてなった[devenu]のであり、この時代の意味を私たちは脱構築せねばならないだろう、と。」51

 ロゴスや真理の時代、それは去勢の時代である。それは去勢を通じて構築されたのであり、去勢から生じた(de-venu)のだ。ロゴスの真理は去勢であり、真理のロゴスは去勢である。こうした時代のなかで、ニーチェは、こうした時代を書いた。「こうした時代のなかで」書いた限りにおいて、彼のエクリチュールもまた去勢し去勢されるものであった。「彼の名を主要な公式の旗印[enseigne]として実際に[effectivement ; 効果的に]振りかざした唯一の政治がナチの政治であったという事実のうちには、まったく偶然なものは何もない」52。そして今日なお、F.N.を筆頭とする去勢の政治が、他者への性暴力を否定し自らの暴力性を肯定しようとする政治の去勢が、性懲りもなく回帰しているという下司な事実のうちには、やはり何の偶然もない53。しかし「こうした時代を」書いた限りにおいて、ニーチェのエクリチュールは過剰に肯定するものでもあったのだ。「まずもって自分のエクリチュール」を、自分が「なぐり書き」であることを、したがって、自らが分かれているということを、男でもありかつ女でもあるということを、それは書いたのだ。還元不可能な複数性を、確定された二つの性とは異なるものを、それらとは異なる性を、他性=多性を、それは肯定したのである。この手の過剰−性ないし性−過剰、このいわば「怪物性(monstruosit_)」54は、なるほどたしかに危うい。だが、その危うさこそが「この時代の意味」なのだ。それゆえこれを「私たちは脱構築せねばならない」。

「しかるに、こうした方向においては[…]、ハイデガーの思想は、_ primum signatum _としてのロゴスと存在の真理という審級を揺がせはしないであろうし、それどころか逆にこれを再建するであろう。」55

 ハイデガーの沈黙。かの悪名高い沈黙とは別の、とはいえ「同じ」沈黙。すなわち、「ハイデガーの思想」においては、「性的差異は存在論的差異の高さまでは届かないであろう」56ということ。伝統的な「通俗的時間概念」の「破壊(Destruction)」によって、来たるべき「脱構築」を準備しえたはずであるのにもかかわらず、ハイデガーの一つの口が自らの二つの手に「性的差異」について本来的に「口述する(diktieren)」ことは決してなかった。その口は、むしろ逆に、「ロゴスと存在の真理という審級」を「保つ」ために「語る」ように思われる。「『形而上学入門』以降、ハイデガーは存在論という企てと語とを放棄する。存在の意味の必然的で根源的で還元不可能な隠蔽、現前の出現[_closion]そのもののうちへの存在の意味の掩蔽、こうした退き籠り[retrait]がなければ隅々まで歴史であり存在の歴史であったところの存在の歴史さえないであろうということ、存在はロゴスによってのみ自らを歴史として産出するのであって存在はロゴスの外では何ものでもないのだというハイデガーの力説、存在と存在者との差異、こうしたすべてが示すのはまさに、根本的には何ものもシニフィアンの運動からは逃れられないということ、最終審級においてはシニフィエとシニフィアンの差異は何ものでもないということ、これである」57。

 存在というシニフィエとロゴスというシニフィアンとの究極的な一致、その無差異(indiff_rence)。これがハイデガーの「最終審級」である。そこでは「何ものもシニフィアンの運動からは逃れられない」。つまり、たとえば「書かれた言葉」は、「手書きされたもの」であれ「印刷されたもの」であれ、ロゴスとして「口述されたもの」につねにすでに従属しているということである。一つの口はつねに一定の「高さ」から「語る」のだ。ハイデガーは、それゆえ、彼自身が「破壊」しようとした当のものに、「ある一つの時代」に、「根本的には」とどまることになるだろう。「ロゴスのなかに要約された十全な現前に痕跡を服従させること、十全性を夢見るパロールの下位にエクリチュールを貶めること、こうした身振りは、存在の始源学的かつ終末論的な意味を、現前として、として、差延なき生として規定する存在論−神学によって、とられるものである。[…]そういうわけで、こうした運動がプラトン主義という形式において自らの時代を開くのだとすれば、それは無限論的形而上学[m_taphysique infinitiste]というにおいて自らを実現する。唯一無限な存在だけが差異を現前のうちへ還元することができる。[…]痕跡の昇華[sublimation]としてのロゴスは神学的である。無限論的神学は、つねにロゴス中心主義である」58。

 そういうわけでハイデガーは、その「最終審級」において、「いぜんとして真理のとのうちに、男性ロゴス中心主義的空間のうちに」とどまる。「ロゴスと存在の真理という審級」にあっては、痕跡は抹消されねばならない、「なぐり書き」は「昇華」されねばならない。ハイデガーは、「筆跡とともに性格を隠蔽する」という理由でタイプライターを糾弾していたが、存在者の「性格」を規定している「存在」を開示するためには、実は「筆跡」もまた残ってはならないのだ。タイプライターによって「あらゆる人間が同じような外観を呈している」とハイデガーは言う。だが彼なら、「筆跡によってあらゆる人間がばらばらな外観を呈している」、と非難することもやはりできたであろう。問題なのは、ばらばら/同じという区別ではない。外観/内観という対立構造こそが「根本的」なのだ。そしてこの「内観」にあっては、存在とロゴスとは一致する。一つの口におけるシニフィエとシニフィアンの関係は一直線である。「十全性を夢見るパロール」は「シニフィアンの運動」から何ものをも逃さない。「十全な現前」、その無差異、その直線性。「こうした直線主義[lin_arisme]はおそらく、音声ロゴス主義から分離しえない。それは、直線的エクリチュールが声に従属するようにみえる限りにおいて、声を高位につけることができるのだ」59。

 それゆえ、まさにこの「直線という謎めいたモデル[le mod_le _nigmatique de la ligne]」60こそが、「現前とロゴス中心主義の形而上学に対するハイデガーの立場の曖昧さ[ambiguit_ ; 両義性]」61を説明してくれることになるだろう。というのも、「通俗的で世俗的な時間性の概念、これは、ハイデガーの示すところによれば、アリストテレスからヘーゲルに至るまでのあらゆる存在論を内部から規定しているのであるが、この時間性の概念なしにはの直線性は成立しないのだということが認められるとすれば、エクリチュールについての省察と哲学史の脱構築とは分離することができなくなる」62はずであるにもかかわらず、ハイデガーは、「哲学史の脱構築」の方はそれなりに行ったものの、「エクリチュールについての省察」の方は、以上みてきたように、なおざりにしてきたからである。いいかえれば、ハイデガーは、「通俗的時間概念」、すなわち「いまBが、いまAの過去把持といまCの未来把持とによって、そのものとして構成されるであろう」ような「直線的で、対象的で、世俗的な」時間概念63、これを「破壊」することによってエクリチュールや痕跡について思考することができたはずであるのにもかかわらず、そうはしなかった、ということである。つまり、「直線という謎めいたモデル」、「自らに固有の歴史の内部に目を開いていたにもかかわらず哲学が見ることのできなかったものそのもの」64、これをハイデガーもまた「根本的には」見ることがず、したがって「破壊」できなかったのであり、「それどころか逆にこれを再建する」ように思われる、ということである。

 それでは、この直線モデル、その直線性の問題とは何か?それは「多−次元的な象徴的思考の抑圧[le refoulement de la pens_e symboliquepluri-dimensionnelle]」65である、とデリダは言う。「多−次元的」とはおそらく、一次元、二次元といった次元というものが多数あるということではなく、ある一つの次元そのもののうちにすでに多くの異なる性質が含まれているということであるだろう。つまり、均質で同一的な次元が多数あるのではなく、多数の次元のそれぞれがすでに不均質で非同一的であり、自らのうちに多性=他性を含んでいる、ということであるだろう。「象徴的思考」が「象徴的」であるのは、まさにこの多性=他性によってである。しかるに直線モデルはこれを「抑圧」する、つまり去勢し抹消する。それは諸次元の不均質で非同一的な危うい均衡を、安定化へと導く技術なのだ。

「この均衡を以前からつねに脅かしているものは、象徴の直線性を開始するものそのものと混じり合っている。これまで見てきたように、伝統的時間概念、世界と言語とのあらゆる組織化は、この直線性と緊密に関連している。狭義の意味におけるエクリチュール−とりわけ表音文字[_criture phon_tique]−は、非直線的エクリチュールの過去のうちに根を降ろしている。非直線的エクリチュールは征服されねばならなかったのであり、こういってよければ、ここでその技術的成功について語ることができる。この成功は、危険で不安に満ちた世界におけるより大きな安全性と資本蓄積のさらに大きな可能性とを保障していた。しかしこれは一度に行われたわけではない。ある戦争が開始され、そして直線化に抵抗していたもの全ての抑圧が行われたのだ。何よりもまず、ルロワ=グーランが「神話文字[mythogramme]」と呼んでいるもの、すなわち、多−次元性のなかで自らの象徴を判読する[_pelle ; 綴を言う、たどたどしく読む]エクリチュールの抑圧が行われた。このエクリチュールにあっては、意味というものは、継時性や論理的な時間秩序、あるいは音の不可逆的な時間性に、従属してはいない。その多−次元性は[…]、歴史的経験の別の層に対応している[correspond]のであり、事実また逆に、直線的思考を歴史の還元として考察することもできる」。66

 「非直線的エクリチュール」、「多−次元性のなかで自らの象徴を判読するエクリチュール」。これは「歴史的経験の別の層に対応している」。もし「直線的思考を歴史の還元として考察する」とすれば、それは「歴史的経験」とは別の経験に対応していることになるだろう。言い換えれば、この別の経験こそ、その「照応(correspondance)」こそ、「直線的思考」が還元したものにほかならず、たとえばハイデガーによる「書かれた言葉」の格下げは、「その技術的成功」のうちの一つである。「十全性を夢見るパロール」のあらゆる「戦争」は、自らの「より大きな安全性」を確保するためにこそ行われたのだ。「手書きされたもの」や「印刷されたもの」といった「エクリチュールの通俗的概念」、「この概念が歴史的に幅をきかせることができたのは、ただ−エクリチュールの隠蔽によってだけであり、また自身の他者と自身の分身を追い払い、自身の差異を還元しようと努力するパロールの欲望によってだけであった」67。

 しかし「狭義の意味におけるエクリチュールは、非直線的エクリチュールの過去のうちに根を降ろしている」。そしてさらに「私たちは逆に、話声言語(langue orale)はすでにこのエクリチュールに属していると考える」68。いいかえれば、「パロールの欲望」は、唯一の同じ身振りでもって、「自身の他者」としての非直線的エクリチュールを隠蔽し、「自身の分身」としての直線的エクリチュールを従属させたのだ。それは「ある一つの戦争(une guerre)」なのである。しかし、あるいは、それゆえ、この「戦争」を遂行する条件は以下のようなものでしかありえなかったことになるだろう、すなわち、「いわゆる「根源的」「自然的」等々といったは決して実在したことがなかったということ、がエクリチュールによって手をつけられず無傷のままであることが決してなかったということ、はつねにそれ自身エクリチュールであったということ」69、これである。だとすれば、たとえどれほど「口述されたものは、印刷されたもののなかでは、もはや語らない」ように思えるにしても、たとえどれほど「印刷されたもの」が「言葉の破壊」を促進し「手書きされたもの」がそれに「耐える」ようにみえるにしても、「口述されたもの」からしてすでに「手をつけられていた」のであり、それはいささかも「根源的」「自然的」「存在的」ではなく、「言葉の破壊」はすでに始まっていたことになるだろう。つまり、Die Sprache spricht[言葉は語る](ハイデガー)ではなく、Die Sprache verspricht sich[言葉は自らに=自らを約束する=言葉は言い間違える](ポール・ド=マン)ということである。

 それゆえは、「エクリチュールは隅々まで歴史的であり、エクリチュールに対する学的関心がつねにエクリチュールの歴史という形式をとったのは、自然でもありかつ驚くべきことでもある」70。自然言語はない。言語はすべからく「歴史的」である。「書く方法上の歴史」に対するハイデガーの「学的関心」は、この限りにおいて、「自然的」である。しかしながら、この「歴史」がつねに「抑圧」の歴史であり、つきつめれば「歴史の還元」にほかならないことを考慮にいれるなら、その「歴史」を「自然的」とみなすのはまったく「驚くべきこと」であるだろう。言語は「隅々まで歴史的」ではあるが、しかし、それは直線的ではない。言語の直線的歴史性は「戦争」の効果である。エクリチュールはいわゆる歴史的経験の「別の層」を含んでいるのであり、その非直線性こそ「生けるパロールの欲望をその最も近くで脅かしていたもの、内部から、その始まりから、これを損なっていた=開始していた[entamait]もの」71であり、かつ「狭義の意味におけるエクリチュール」のうちに残っているものであるのだ。

 したがって今やその痕跡を判読していかねばならない。「多−次元性への、脱直線化的時間性[temporalit_ d_lin_aris_e]への接近」72をあらためて始めねばならない。「歴史の還元」を乗り越えて、去勢の時代と修正主義を乗り越えて、「直線的モデルに従属したあらゆる合理性を、神話書法[mythographie]の別の形式、別の時代として現われさせる」73べく思考せねばならない。  

「書かれた記号への接近は、痕跡のなかに現実存在を存続させる聖なる力を、また宇宙の一般的構造を認識する聖なる力を保証するということ」74

 「別の形式、別の時代」、そして「聖なる力[pouvoir sacr_]」。それはおそらく、測りきれないほど過剰であるだろう。それは「危険で不安に満ちた」ものであるだろう。たしかに「安全性と資本蓄積」への欲望は避けがたい。だがそれもまたつねに、ある「抑圧」の効果にすぎないのだ。

「そういうわけで人は、直線なしで[sans ligne]書き始めることによって、過去のエクリチュールを空間の別の組織化にしたがって読み直しもする。今日読解の問題が学の前面を占めているとすれば、それはエクリチュールの二つの時代の間のこうした宙吊り状態ゆえにである。私たちは書き始めるがゆえに、別な風に書き始めるがゆえに、別な風に読み直さねばならないのだ」75。  

 それゆえ私たちには今日なお、「新しい精神分析的な筆跡学[nouvelle graphologie psychanalytique]」が必要なのである76。たとえグラマトロジーが、ロゴスを用いねばならず、したがって「現前のなかに幽閉されたままであるだろう」としても77、あるいはそれだからこそ、私たちは「閉域外のほのかな光」78を頼りに書き続けるだろう、別のペンで、別のタイプで。三つの手は「別な風に[autrement]」読み直されるべく差し出されている。

(注記 : 1990年、J.デリダは、「デリダ−サール論争」にかかわる一連のテクストを収めたLimited Inc.というすでに2年前アメリカで出版されていた同タイトルの書物を、新たにフランスで公刊することとなった。そのなかにはもちろん「署名 出来事 コンテクスト」も含まれていた。約二十年の時を経て、彼は再び模倣=偽造した。それゆえこれをそこに引用する79。どこに?ここに。K.K.)


小森 謙一郎

以上の発表は、1999年6月22日、言語態第9回例会で発表された。HP掲載にあたり「1.二つの署名」の一部及びすべての注は省略した。

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