言語情報科学D1 小松史生子

「近代日本文学研究の死角 —江戸川乱歩〈少年探偵団〉シリーズ—」

一、反動ではなく、必然として 江戸川乱歩の作品をいわゆる文学研究の場に於いて論じるという行為には、いつ もその研究主体に不安と、そしてもっと根深い後ろめたさとでもしか表現しようの ない感情がつきまとう。池田浩士しかり、浜田雄介しかり、横井司しかりである。 この後ろめたさは、誤解されやすいが、乱歩の作品(特に昭和四年以降の作品)が 娯楽雑誌に書かれた(故に?)売文的通俗作品であるとして、その存在は一応認め ながらも、正統な近代日本文学史の流れに於いてはあくまで傍流として位置づけよ うとするアカデミズム・イデオロギーに対する怖じ気や又は反動的感情から発する ものでは決してない。乱歩を論じようと試みる研究主体を捉える後ろめたさの源 は、そのテクスト自体がいわゆる文学研究を施されることによって何物も得るとこ ろが無く、あげく作品世界の崩壊を招いて、研究主体から遠く逃れ去ってしまうの ではないかという、研究主体とテクストとの二者間で浮上する危惧の念に由来する のであり、そこにはアカデミズム・イデオロギーへの配慮などもはや意識の外なの だ。 結論から言ってしまえば、乱歩の特に昭和四年以降の長篇を、文学研究として論 じるのはたいへん難しい。その困難さが積極的にこれを文学研究として論じようと する挑戦者を後込みさせているというのがおそらく実際のところで、その弁明とし て「通俗文学云々」なる唐突な評価軸が文学史の記述に立ち現れてくるのではない かと考えられる。元来文学史の記述というものが必然的に内包してしまう矛盾点で ある時間軸と評価軸の問題を、乱歩のテクストは鋭く突いてしまうのである。文学 史の記述というものは、どんなに時間軸という客観性を唱ってみても、その裏面に 記述主体の恣意的なピックアップによる主観が必ずぴったり貼り付いているのであ り、それを否定するのは文学史家の欺瞞にすぎない。その事実をまずしっかりと研 究主体が認識した上で、即ち文学史がピックアップの記述であるとするなら、その 作品選択の尺度とは何処に求められ、且つその尺度によって文学史から排除される 作品を劣として単純に評価軸に片づけるのではなく、論じ得る作品と論じられない 作品とが生じてしまう文学史のメカニズムとはどういう意義があるのかという点に まで、研究主体は問題を意識化して行かねばならないだろう。  ここで論を戻して、乱歩のテクストが何故文学研究として論じるのが難しいとさ れるのか、その点について、〈少年探偵団〉シリーズ(昭和11?昭和37)を例に 挙げて以下に解説を施していく。 

二、〈今〉という視点の導入 〈少年探偵団〉シリーズの第一作『怪人二十面相』が講談社の雑誌「少年倶楽 部」に掲載されたのは、昭和11年1月から12月、二作目の『少年探偵団』は同 誌に翌12年1月から12月である。この事実を踏まえて、従来のこのシリーズつ いての研究論文は、掲載誌である「少年倶楽部」という雑誌のシステム—即ちメデ ィア研究の方向と、昭和十一年という掲載時の社会状況を表す言説との関わり—即 ちカルチュラル・スタディーズの方向とに、大きく収斂されてきた。例えば、高桑 法子の「『怪人二十面相』論—虚体の戯れ」(「國文学 解釈と教材の研究」平成 3・3)は、1930年代に於ける日本の南洋進出の反措定として二十面相の登場 を規定しようと試みている。 こうした読解の試みは、乱歩作品のテクスト分析には最もふさわしいとされてき た二方向であり、現に松山巌『乱歩と東京』(昭和59・12)に代表されるよう な優れた研究成果も達せられている。  しかし、こうした研究方向では論じ切ることの出来ない問題が、未だこのシリー ズには残されている。というのは、こうした研究方向では、このシリーズが何故今 日も子供達によって熱狂的に支持され読み継がれているのかという点が説明できな いからである。高桑法子の言う昭和十一年の日本の南進政策の反措定として二十面 相は確かに捉え得るかもしれない。が、当時の子供達も今日の読者である子供達は なおさら、二十面相を南進政策の反措定等とは読んでいないだろう。二十面相に南 進政策の反措定を読み得るのは、研究主体=大人の視点であり、それはあくまでも 現在今日という時点から、作品発表時を過去として顧みる時間軸に拘束された制度 的な視点である。 〈少年探偵団〉シリーズを論じる困難さの大本は、今現在もこの作品が生きてい るということにある。しかもその命は、文学史の記述に依存した〈文学全集〉によ って保たれているのではなく、文学史から排除された場所で、文学史の力を借りる ことなく長らえている。文学研究というものが作品論から作家論、作家論から文学 史へというコースを辿るものであるとするなら、充分な作品論を展開されなかった 〈少年探偵団〉シリーズは文学研究を必要としないで現代にアピールし続けるとい う点で、文学研究への痛烈なアンチ・テーゼを放っていると言えるだろう。いわ ば、〈少年探偵団〉シリーズという作品の存在は、文学研究の存在意義を揺さぶる ラディカル因子として機能するのである。この二作品と対峙するとき、文学研究 は、己が文学に何を貢献し得るのかという問題を想起せずにはおれず、一般にそう した問いは不毛とされて看過されてきたのではないか。この問いの看過が、『怪人 二十面相』や『少年探偵団』といった作品を回避していく文学史のイデオロギーを 形成してきたのではなかろうか。 即ち、〈少年探偵団〉シリーズを文学研究として論じるという行為は、文学史の 記述に〈今〉という視点を導入することを意味する。過去に於いてこう読まれてき た作品が、今どう読まれ、そして未来に於いてどう読まれ得る可能性を内包してい るのか—そうした視点を導入することによって、文学研究は文学テクストの命のメ カニズムに迫り、且つテクストの活性化に貢献することが出来るのではなかろうか。 

三、読者論の有効性とその限界 1998年6月27日の近代文学会の例会は、〈通俗の逆襲〉というテーマで、 金子明雄氏が徳富蘆花『不如帰』を、真鍋正宏氏が明治30年代からの流行小説全 般についてを、それぞれテーマに即して発表した。しかし、両氏の発表に共通して いたのは、真鍋氏のレジュメの副題にもあったように、「かつて流行したが、今は 忘れられている」作品についてという構えであった。その時点で、私の研究意図と 両氏のそれとは決定的な差異を生じている。即ち、この例会のテーマは近代文学会 としては異色のつもりであったかもしれないが、やはり過去時制に拘束された文学 史の記述の視点に即しているわけであり、そうした意味に於いては、〈逆襲〉と銘 打つほどの研究姿勢の亀裂を示したわけではなかった。かろうじて金子氏の発表の 中に、レトロスペクティヴな視線による再評価の波—時間の往復運動—についての 指摘があったが、それはテクストの〈今日的意義〉にまで発展する類ではなかった ように見受けられた。これは、『不如帰』と〈少年探偵団〉シリーズとのテクスト 上の質の相違であって致し方ないことかもしれない。  金子氏が方法として依拠している読者論は、〈少年探偵団〉シリーズを論じる上 でも有効性を持つものだが、限界点も有している。読者論の方法で、『怪人二十面 相』連載中の「少年倶楽部」に寄せられた数々の投書を検討してみよう。読者であ る当時の少年少女達の乱歩作品への感想は、同時に掲載されていた吉屋信子の『草 笛吹く頃』や久米正雄『黒い真珠』等へのものとは明らかに異なっているようだ が、少年達の感想は画一的で、彼等が作品から何を読みとっていたかは表現不足も あって今一つ核が掴めない、とするのが誠実な回答であると思われる。というの も、道徳教訓的な小説と冒険活劇調の小説とでは感想が異なるのは当然のようだ が、しかし、道徳教訓的な小説として書かれた建前の『草笛吹く頃』や『黒い真 珠』が子供達を惹きつけたのには、数々の辛苦を勇気や正義感や知恵で乗り越えて いく主人公の姿という冒険のドラマツルギーがあったためであり、乱歩や南洋一郎 等の冒険活劇物と実はそれ程径庭のあるものではなかったと考えられるからであ る。現に、乱歩の作品に登場する小林芳雄少年は、勇気と知恵で悪漢二十面相と闘 うわけで、そこに健全な少年像という当時のイデオロギーを読み取るのは的外れな 読解ではなく、その点で他の道徳教訓物の主人公と相通じているのは確かだ。  しかし、乱歩作品への感想は、投書等はっきり明文化されない水面化の何処か で、投書に見られる健全さとは裏腹の、不健全への憧憬とでもいうべき感情を以て 綴られていたのではないかという推測が、今日の読者の感想を見れば当然思いつか れる。そして、こちらはその推測が十分あり得るとわかっていながらも、実証的な データを挙げることが困難なのであり、悪く言えば今日の評価で当時の評価を読み 替える虚妄とされ、抗弁する余地はない。読者論は、データによる実証性にその学 術的客観性を依拠している点が、文学研究として成立し得る最大の強みであるが、 〈少年探偵団〉シリーズを論じるには不十分であるとしか言いようがない。健全な 少年の理想像に該当するかのように見える小林少年の、両親もなく、夜の外出も自 由で、明智小五郎と親密以上の親密さという設定を、当時の読者である子供達が実 際どのように感じて読み取っていたのかは、戦後、大人になった彼等の追憶談に頼 るほかなく、それはもはやノスタルジーというバイアスのかかった感想で、データ としては時間的距離が隔たってしまっているのだ。しかも、〈少年探偵団〉シリー ズが今日まで長らえている要件として、このノスタルジーという非客観的なバイア スは非常に大きな割合を占めているという、ジュヴナイル特有のパラドックスが存 在する。 

四、ノスタルジーの克服—テクストの受容史 読者論の限界を補強して〈少年探偵団〉シリーズを文学研究として論じていくに は、この非客観的バイアスであるノスタルジーを克服する方法論を発見せねばなら ない。それには、読者論を過去ではなく現在に適用して、今この作品がどう読まれ ているのか、この作品が今の読者に何を訴えかけているのかという視点を確保する のが大切と思われる。これは、即ちテクストの受容史の検討を必要とするだろう。  乱歩の作品に於いてその受容史が甚だ重要である理由は、文字テクストが他のメ ディア・テクストへ浸透していく方向性が非常に強力で、文字テクストとそれの副 産物として発生した他のメディア・テクストの両者をひっくるめて〈乱歩〉という 一つの情緒共同体が形成されているからである。しかしながら、いわゆる文学研究 の現場では、こうした情緒共同体の存在を認識するための受容史の研究が、立ち後 れてきたのである。それは、畢竟文字テクスト至上主義に他ならない。文学研究の 文字テクスト至上主義は、当然のことと思われている節があるが、はたしてそうだ ろうか? 例えば、挿絵の問題がある。文字テクスト至上主義の文学研究では、挿絵は美術 の範疇として排除される。一方、美術の方でも、挿絵は文学に付随している添え物 として、まともに取り上げられない。挿絵の研究は、両研究領域の狭間に落ち込ん で、今日までアプローチの方向を見失っていた。元来、日本文学は絵巻物の存在か ら考えても、挿絵と密接な関わりを持ってきたのであり、近世に入ってそれが草双 紙、合巻の流行と相まって、文字テクストが決してそれのみで自律していたとは言 えない状況だった。文字テクストがその自律性を声高に唱い出して、挿絵をいわば 蔑視し始めるのは、近代に入ってからのごく最近の話なのである。ポプラ社は昨 年、少年探偵団シリーズの装幀を一新して再刊に踏み切ったが、藤田新索の装幀 は、少年探偵団シリーズを見事にモダンホラーとして今日的意義を獲得させて甦ら せた。今回の新装幀には、従来の文学研究がかろうじて少年探偵団シリーズに言及 し得た「失われた東京」というフレーズは存在していない。ノスタルジーというバ イアスが、感度を変えて時間軸を超越したと言えるのではないか。そして、こうし たテクストの再生を可能にしているのは、紛れもなく文字テクストなのであり、視 覚化された二十面相の像はいつも「そのころ、東京中の町という町、家という家で は、ふたり以上の人が顔をあわせさえすれば、まるでお天気のあいさつでもするよ うに、怪人「二十面相」のうわさをしていました」(『怪人二十面相』)、「そい つは全身、墨を塗ったような、おそろしくまっ黒なやつだということでした」( 『少年探偵団』)といった作品冒頭のエクリチュールに還っていくのであるから、 乱歩のテクストはそうした再生の契機を常に孕んでいる言語のトポスとして在ると 考えられるわけで、研究主体は単純な文字テクスト至上主義ではなく、こうしたト ポスの領域として〈少年探偵団〉シリーズのエクリチュールを分析して行かねばな らない。 

五、〈通俗〉の形成へ向ける目 挿絵の問題の他に、少年探偵団シリーズは周知のようにラジオドラマにもなっ て、あの印象的な主題歌と共に広く一般に浸透した。ここからは、オーラル・コミ ュニケーションの問題も浮上してくるだろう。その他、映画やテレビといった映像 化も頻繁になされ、視覚メディアとの関わりは非常に深い。  何故、これほどにも他のメディアへの浸透力が強いのだろうか。この疑問は、 〈通俗〉と名付けられた社会心理と文学との関わりという、今まで文学研究が忌避 してきた問題に正面から取り組むことを研究主体に要求してくる。〈通俗〉は低俗 という無責任な評価軸を導入した意味ではない。〈通俗〉とは、人を容易く(或い は強く)感動させるコードであると、仮定したい。このコードが、メディア間の往 復をテクストに許しているのではないだろうか? 人を容易く感動させるというの は、そのコードが受け入れられる情緒共同体が社会的に既存しているという前提が 必要であるかとも思われるが、では〈通俗〉とは、そうした既存の情緒共同体に媚 びるばかりで成立しているのだろうか? 〈少年探偵団〉シリーズが飽きられず今 日までも読者を獲得していることを鑑みるに、そのように考えるのは安直で乱暴で あると思われる。寧ろ、〈通俗〉というコードは固定したものではなく、前後に於 いて流動的であって、一つのテクストに触発されて新たな階層が生じ、それが幾つ も交わり重なっていき、時間軸を消滅させるものなのではなかろうか。  文学史の記述を考える場合、〈通俗〉というコードによる読み替えは、時間軸と 評価軸の矛盾点を解決する重要な指標であるかと思われる。  

1999/05/29 言語態研究会にて発表

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