名前という切り口で近代小説を論じることで何が見えてくるかを考える。
テクストにおける作者の問題が論じられて久しいが、基本的にそれは作者がテクストに対していかなる力をもつかというメタレベルの問題として扱われてきた。「作者の死」を宣告しようと、「作者の復活」を訴えようと、そこでイメージされている「作者」そのものの権能は意外に追究されていない。作品と作者をめぐる一般的な見解に囚われず、文学作品をめぐる様々な名前―作者名、主人公名、作品名など―の取り結ぶ関係のなかで作者名を考察することで、それが死んで見えたり息を吹き返して見えたりする背景にある様々な装置―すなわち近代小説の諸装置―を明るみに出すことができるのではなかろうか。
こうした切り口から、この授業ではauthorshipや固有名をめぐる批評文献と「名前」をテーマに含む近代小説とを併読する。読む作品については履修者と意見を交換しながら決めたいが、いま念頭にあるのはデフォー『ロビンソン・クルーソー』、スウィフト『ガリヴァー旅行記』、リチャードソン『パミラ』、シャーロット・ブロンテ『ジェイン・エア』、エミリ・ブロンテ『嵐が丘』、ジョイス『若い芸術家の肖像』、フローベール『ボヴァリー夫人』、ベケット『名づけえぬもの』、ナボコフ『ロリータ』、ラヒリ『その名にちなんで』、ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』、夏目漱石『吾輩は猫である』、森鷗外『渋江抽斎』、志賀直哉『暗夜行路』、阿部和重『ABC戦争』、星野智幸『俺俺』などである。
導入的な講義と学生の発表に基づいた演習とを組み合わせる。
発表とレポート。レポートでは特定の文学作品をとりあげ、名前の様々な機能について批評的に考察する。
授業時に指示する。
授業時に指示する。