クロソウスキーって誰?

クロソウスキーって誰?

 「クロソウスキーって誰?」と思う人もいるでしょう。「作品などで何となく知っているけど、どんな人なのかは良く分からない」という人もいるでしょう。先日亡くなった画家バルテュスの兄だという事実は比較的有名なことかもしれません。基本的な情報は年譜や作品に載せてありますので、それを読んでいただければ大体のことはお分かりになると思います。しかしそれを読んだからといって、はてさてクロソウスキーとは結局どういう人物なのか、これはなかなか見えてきません。実は私にもよく分かりません(会ったことありませんし)。しかしそれでは話が先に進みませんので、少し考えてみましょう。一般的にクロソウスキーにつけられる肩書きは、「作家」とか「評論家」とか「画家」といったものです。しかしクロソウスキーは、こういった肩書きを否定するようなことを書いています。

 私は「作家」でも「思想家」でも「哲学者」でもない――どんな表現様式においてであれ――そのうちのどれでもありはしない、かつても、今も、そしてこれからも一人の偏執狂であるというそのことに先立っては。(『ルサンブランス』清水正・豊崎光一訳、ペヨトル工房、1992、p.141)

 「自分は一人の偏執狂(monomane)だ」――クロソウスキーのこの言葉は、いったいどのような意味を含むものなのでしょうか。別のところでは、彼はあるインタビューに応えて次のようにも語ります。

 私は小説家ではない。哲学者でもない。芸術家でもない。そういうものというより偏執狂なのです――純粋な偏執狂に外ならない。作品はどれもが、偏執から生まれたものなのですから。(『エロス・ベルゼバブ株式会社』杉原整訳、「夜想22」特集クロソウスキー、ペヨトル工房、1987、p.12)

 彼の作品はすべて、「偏執」から生まれた?わたしたちを煙に巻くような言葉です。ちなみにモノマーヌ(モノマニー)とは精神医学の用語で、ひとつの妄想に異常に執着し、病的な態度を示す人のことなのですが、クロソウスキーは果たして自分が病人だということを単に強調しようとしているだけなのでしょうか。私はそうではないと思います。

 少しでも彼の文章を読んだり、絵を見たりした人ならお分かりでしょうが、彼の作品には同じ主題やモチーフが繰り返し現れます。それは一つの作品内でも、複数の作品間でもいえることです。例えば小説『歓待の掟』では、女主人公ロベルトが何度も何度も異なった人物に陵辱されますし、絵画においてはそのロベルトをモデルにしたと思われるような女性が陵辱されている場面が、これまた何度も何度も描かれます。『歓待の掟』のなかに収録されている作品『ナントの勅令破棄』のなかでは、ロベルトがある男に体操で使う平行棒に手首を紐で括り付けられ、開いた手のひらを舐めまわされるという事件が起こりますが、クロソウスキーはタブローと呼ばれる等身大に近いサイズの絵画において、そのシーンを繰り返し描いています。(ある時期からモチーフはロベルトから少年へと移行しているようですが、それにしても同じような場面や主題が繰り返し現れていることには変わりありません。)

 これは明らかに彼が、一つの主題ないしモチーフに強く固執して創作活動を続けていることの表われだと思います。わたしたちが彼の小説を読んだり、絵画を見るにつけ、そこに何かしら病的なものを感じるのも確かです。しかしながらこうした事実は、決してクロソウスキーに固有のものではないのではないでしょうか。

 クロソウスキーはその文章のなかである程度、その説明を加えようとしています。例えば彼は、しばしば「ファンタスム」というものについて語ります。『ニーチェと悪循環』や『生きた貨幣』などにおいて彼は、言語化(分節化)される以前の人間の欲望、言葉によって決してつかみきれない感情、あるいはこの世にうごめく形にならない様々な衝動の力、そういった人間ひとりひとりのなかで生じる、一般性に還元されない単独性をもった幻想的な何か(それは決して実体あるものではありません)を「ファンタスム」と呼び、それに理論的な説明を与えているのですが、彼は自身の創作活動のなかでも、この「ファンタスム」を常にすくいあげることを考えているようです。

 彼の目に映るロベルトの姿態、あるいは想像上の彼女の姿態は、クロソウスキー自身の固有のファンタスムに基づくものであることはいうまでもないのですが、しかしよく考えてみれば、「作家」とか「画家」とかいわれている人種は、無意識的であるにせよどこかでこういった「言葉にならない衝動の力」をすくいあげようとしているのではないでしょうか。自分の経験、そしてそこから生じるもやもやした感情を表現するのに最も適した(あるいは適している、と思われる)形式を選び、少しでもその「ファンタスム」に近づけるように作品を作り出すことを目指すのではないでしょうか。そして、できあがったものと自分の作りたかったものとの乖離に苦しむ作者の苦悩にもまた、常に裏切られるのを覚悟で臨まなければならないファンタスムの不吉な力が反映されているのかもしれません。

 クロソウスキーが「作家」とか「思想家」といった言葉で自己を規定されるのを嫌うのは、自分は自己の「ファンタスム」に忠実ならんとしているだけなのだ、ありきたりの肩書きで自分を規定しないでほしい、という感情から来るのかもしれません。そうした他人の思惑を逆手に取るように、はばかることなく自分を「偏執狂だ」と規定してみせるクロソウスキー、そこにはいくばくかの茶目っ気すら感じられます。(もう少し突っ込んでいえば、彼自身、「肩書きのシミュラークル」を生産しているのかもしれません・・・「シミュラークル」simulacreについては、また触れる機会があると思います。)彼の作品は確かに偏執的ではありますが、当然のことながら、単に私は病人であるなどと公言しているのではないのです。

 もちろん、最初に引用したクロソウスキーの言葉をどう解釈するかは自由です。しかし、クロソウスキーを読むということは、「作家とは何か?」「書くとは何か?」という問いを抱えつつ、その作品と対峙していかなければならないことなのかもしれません。「名指された瞬間にその対象は死ぬ」というモーリス・ブランショの言葉が思い出されます。クロソウスキーの作品は、名づけられること、限定づけられること、何らかの自己同一性を付与されることを巧みにすり抜けつつ存在していることも、一方で確かなように思われます。いずれにせよ、クロソウスキーを知ることとは、結局は彼の作品に触れることでしかあり得ません。このホームページが、みなさんがクロソウスキーの世界に触れる一つのきっかけになれば、それに勝る歓びはありません。

後記:この文章は、「このホームページについて」と同様、今からちょうど五年前、私がこのHPを立ち上げたときに書いたものです。今読めば恥ずかしいほど稚拙なところも目に付きますが、自分のクロソウスキー研究の出発点と重なる時期に書いたものでもあり、初心の記録という意味で、敢えて残しておきます。なかなか更新ができませんが、クロソウスキー研究は続けておりますので、折を見て、また新たなコンテンツを増やしていけたらと思っております。どうぞお目こぼしくだされば幸いです。(2007年1月)


トップページに戻る