総合科目「一般言語学」(98年夏学期)T. OHORI
[このファイルは、大堀担当「一般言語学」(98年前期)のレポートの一部として出されたコメントをアップしたものです。授業の参加者以外にとっても何かの役に立てばと思います。クラスからの質問・コメントは>印で示し、こちらのコメントは−−で始めています。]
PART ONE
*** 全体について ***
−−いくつもの題材が第一分冊には詰め込まれていたので、わかりにくかったかもしれません。意図としては、学説史関係と「言語の構造」の二本立てです。学説史については、たいていの概説では軽くふれるだけで済んでしまうので、少し詳しくしました。それがかえって混乱を招いた感じはありますが。授業の主旨としては、ワープロ書きの「学説史ハンドアウト」3枚がおさえられていれば、それでOKです。20世紀の言語学については歴史を追うことはせず、今日研究されている分野ごとに基本概念を理解すればよいと思います。その土台になるのが言語の構造についての概説です。第二分冊は音声学と音韻論というぐあいにテーマがはっきりしているので、話の展開が分からないということはないでしょう。大まかにいって、現時点までの授業の進展は、学説史(19世紀まで)>言語の構造>音声学(物理的素材としての音)>音韻論(構造的単位としての音)とまとめられます。「言語の構造」で言われたことの一部は音韻論の部分の理解に役立つことでしょう。今後は音素という小さい単位から、音素の交替規則、形態素の分析と進め、文構造の分析に入っていきます。
*** プラトンと荀子より ***
>プラトンの「クラテュロス」のつづきを教えて下さい。
−−書名はプリントに記してあるので、図書館で見て下さい。昔は岩波文庫にあったのですが、今は絶版(図書館にはあるかも)。
>『クラテュロス』に目を通して感じたのですが、...何に関してでも着想や発見や定義づけ、論理においてどれほどの前提が学問上必要とされるのか見当がつかないのです。
−−このプリントについては抜粋でもあり、昔の文献なのでわからなくても仕方がない、というところはあります。現代人の書くまとまった考察であれば、議論の前提がわからない時は「ダメ」と思って結構です(著者がダメなのか、読者がダメなのか、二通りありますが)。
>荀子の説で、どうして聖王が必要になるのかがよく分からない。ものの認識が感覚にもとづき、その感覚が万人共通なら、感覚表現にもとづいた名前をつければいいと思う。
−−現代人としては、もっともな疑問です。この場合「正しさ」とは聖王の徳治下のことだという限定が暗黙の内にあるとお考え下さい。世が乱れれば本来の姿で世界が認識できなくなるということなのでしょう。
>こうして考えてみると、言語学あるいはことばそのものが存在する前提として、社会的な慣習が必要になるといえるでしょう。それでは一度社会的に概念が受容されて名称はできたものの、その後概念自体が人々に受け入れられなくなったことばはどうなるのでしょうか。例えば「忠」などということばは、一部の人を除いてほとんど意識しない概念となっています。このようなことばは「死んだもの」と扱われるのか、あるいは「生きた言葉」とされるのか...
−−「忠」はふつうに考えれば「死語」です。使われ方が変化して元来の意味から離れている場合、これを言語の(そしてそれを使う人々の)「堕落」とするのはよくとられる見方です。荀子(および儒家全般)の場合は古の王道の復古が目標なので、「忠」なども復活させたがることでしょう。
>一番最初に名前をつけた人は、その対象の本性に関わる名前を考えたにちがいない。...しかし、名前が定着し、人々に使われるのは慣習によると思われるし、名前と対象の本性が関係していても、必ずしもその名前で呼ばれなければならないという必然性の根拠はないので、荀子らの説を支持できる。
−−なるほど。言語の「恣意性」についても、それが言えるのはシステムの「外部」にいる時だけで、「内部」にいる者にとっては束縛されているわけです。
>...ただ分かったのは、これほど昔の人は哲学的な会話をしていたのだな、ということである。
*** 『ユリイカ』記事より ***
>サピアについての文章が何をいっているのか、何のために収録されたのか分からない。
>当初傍流であったようなニュアンスにもとれる「サピア・ウォーフの仮説」の位置づけがよくわかりません。
>ユリイカのは、まったくの門外漢にはとりあえずサピアとは誰か、ということ、そして、なぜ彼が鬼子なのかということもよく分からないということ。
>サピアの業績は認めるべきものだろうと思うが、生前にあまり評価されなかったというのは残念だ。
−−同様の意見は数多く頂きました。次にこの種の授業をやるときはひっこめます。なお、サピア自身は生前から高く評価されており、むしろ死後しばらくの間影が薄い時期があったというのがより正しいところです。
*** 『国語学の50年』より ***
>「国語学の五十年」のいいたい所が分からなかった。
>池上嘉彦「言語理論」について、明確に理解することができない用語が多い。現段階で読んでも得るものは少ないと思う(成層文法、生成意味論、認知言語学、語用論)。行動主義というのは意味論を議論するときはじめて問題になるのではないか、と思う。
>変形文法理論と、生成意味論がよく分からないので、説明して下さい。あと、成層文法とは、どのようなものですか。
−−他の教材にしてもそうですが、一言もらさず理解するというよりは主要な学派とその主張がわかればそれでよいと思います。この論文でいえばアメリカの構造主義、チョムスキー学派とその分派、および現在のアプローチの特色。なお「成層文法」や「生成意味論」はともに70年代前半に行われ、今ではすたれた理論です。発想面では学ぶものはあるのですが、細かい内容については知る必要はないでしょう。今日につながる点については別の機会で説明できればと思います。
>チョムスキーの登場については分かるのだけれども、その詳しい内容については分からない。
−−これも文法(統語論)のところで説明します。
>チョムスキーの言語学の「有限の文章のパターンとその有限の変形で、無限の組み合わせを作る」という考え方はとても面白いと思った。
−−その通りですね。詳しくいえば文法規則が発達している点が人間の言語に特徴的といえるでしょう。
>チョムスキー以前の「アメリカ構造言語学」とヨーロッパの構造主義的言語学とが比較されるのがよくわかりません。...ヨーロッパは構造主義的かつ主観的であったということなのですか?ソシュールを近代の祖としている限りそうであるとはあまり思えないのですが。
−−ヨーロッパの言語学が主観的であったというわけではないですが、「観察可能性」ということにとりわけ強い執着を示したのがアメリカ構造主義(の主流派)でした。アメリカでのソシュールの影響はきわめて限られたもので(民族学が主導したことはプリントにも書きました)、英語訳が出たのも1959年でした。ちなみにヤーコブソンたちのプラハ学派はソシュールだけでなくフッサールの現象学にも影響を受けていたといわれます。これはアメリカにはないことです。
*** 「言語の構造」より ***
>ライオンズの「言語の構造」の抜粋は、一体どのような意図をもって含まれていたのでしょうか?
−−まず、「学説史」の一部ではないということを言っておきます。音韻や文法の体系を論じるために必要な予備知識としてテキストに入れました。どのレベルを論じるにせよ、「構造」として言語を見ることは共通しているので。本当なら第二分冊でよかったかもしれません。
>ラングとパロールは一度習ったことがあるんですが、忘れてしまいました。
−−今ではわかったことでしょう。
>ライオンズ「言語の構造」について、それなりに分かりやすかった。ただ、一部分からないところもあった(二重構造、形式と実質、要素体系)。
>言語の二重分節とは何か。音声そのものがイメージを喚起することは考えられることであって、機能的に文章中で述べられている機能のみということではないのではないか。
−−二重分節とは、有意味な単位としての語(正確には形態素)のレベルでの分節とともに、その表現面が音素というさらに細かい単位に分節されることをいいます。数学的には、二重分節には次のような利点があります。一つの概念に対して一つのユニークな表現を単音で与えるようなことになると、概念の数だけ音が必要になってしまいます。何千、何万という音の発し分けはふつうできません。そこで固有の意味をもたない音素という単位の組み合わせによって有意味な単位を作り上げれば、たかだか数十の音素で万をこえる形態素が作れます(ある言語で26個の音素があり、すべての形態素が4つの音素で構成されると仮定すれば、26の4乗=45万強の可能性)。なお、「音声そのものがイメージを喚起する」ことも否定はしませんが、固有の概念はもっていないという点をおさえて下さい。
>結果として生じる句や分が意味をもつかどうかに関係づけられない「生起の可能性」とは何か。
−−ある言語で、組み合わせが論理的に可能かということと現実に存在するかということは異なります。後者が記述的な関心であるのに対し、前者はより理論的な関心を反映します。具体的には、KABANやNABANはともに日本語として「可能な」音素連続です。後者はたしかに辞書にはない語で、「結果として生じる句や分が意味をもつか」といえばNOですが、「生起の可能性」としてはYESです。ところが、NKAABなどは日本語として無意味なだけでなく、不可能な組み合わせです。そこで、日本語の音韻規則としてはKABANやNABANを認め、NKAABを認めないようなものを設けることが必要になるわけです。
>”音的実質と図形的実質の間に物理的な安定性に相違がある”とあるが、例えば英語は主に話すことにウェイトがあり、日本は書くことにウェイトがあると言われるように、言語の違いでその安定性にも大きな影響があるのか。
−−物理的な安定性の相違とは、音は発せられるさきから消えていくのに対し、文字は時間の中で残るということです。言語による違いはここでは考慮しません(文字に対するこだわりは文化によっていろいろあるでしょうが)。
>”実質と形式”が把みにくく<2.2.2>で示されるソシュールの見解(意味の実質を言語とは独立して人類に共通している思想感情の総体)という部分と前後のつながりがよく理解できません。
>色の呼びわけはまさしく虚構の分節による。虚構だから必然性はない。言語、つまり文化によってまちまちだ。...ことばは虚構の分節化を行うものであり、それは言語によって異なる分節化を行うからだ。
>翻訳は、1つの言語から他の言語への完全な投影とはなり得ないのだ。例えば英語で書かれた文章があったとする。ある人がそれを和訳し別の人がその逆に英訳したとする。最初の英語の文章と、2回の翻訳の過程を経た英語の文章を比較したときどんなことが予想されるだろうか。おそらく2つの文章が全く同一ということはあり得ないだろう。用いられる語彙や文型が多少異なり、そのためにニュアンスが微妙にかわっているところもあるだろう。これは翻訳者の技量の問題ではない。むしろ言語の特質そのものの問題である。異なった概念体系の上に成り立つ異なった形式にまたがる変換であるがゆえに、いかなる翻訳も完全ではあり得ないのだ。
>言語による経験世界の分節の恣意性...言語の構造が人間の認識や思考を規定しているというと何か、言語が人間の認識枠組みや思考の自由さを奪っているようにも聞こえるが、言語ができたばかりの時には、むしろその逆で、人間の認識を最も効率がいいように定めてくれていたのだ。言語を習得することによって、その特定の環境で生きている際に便利な認識方法も身につけることができたと言える。つまり、言語の構造は全く偶然的に決まっていったものではなく、生物の特質・特徴のように、まわりの環境によってかなりの部分必然的に決定されてきたのではないだろうか。
−−いずれもなるほどという意見です。「言語(=形式)による経験世界(=実質)の恣意的(=積極的な動機づけなき)分節化」という考えは構造主義的発想の中核と言えるでしょう。ただし、これより一歩先んじた考え(プロトタイプ論)はより最近の研究で示されており、授業の後半でとりあげることになると思います。
>ライオンズ「言語の構造」についてだが、後半になるにつれて意味不明の個所が多くなり、読んでいていらいらしてくる。
−−多少は危惧していたことですが、翻訳のまずさが気になる人もけっこういたようです。翻訳者は東大にいた偉い先生なのですが、「監修」ですから弟子にでもやらせたのでしょう。原文をあたるか(John Lyons, Theoretical Linguistics, 1968, Cambridge University Press)、具体的に分からないところをまた質問してくれればお答えします。
>2.3.8節、数式を見ると頭がくらくらしてくる、というわけではないのだが、この部分は何を言っているのかさっぱり分からなかった。
−−この授業では話題にしませんが、手短かに説明するとこうです。n個の単語を区別するためにm個の文字を用いる場合、n=mならば単語の長さは1文字で済みます。英語のアルファベットは26個の文字からなっていますから、26個の単語までは1文字で記号化できます。ところがn>mの時には複数の文字長が必要となります。ここでいっているのは、nとmの値が文字長と相関を示すということです。
*** その他 ***
>サンスクリット語とは何か?どういう文字でできており、どういう場所で、いつ使用されていたのか。...サンスクリット語、ギリシャ語、ラテン語の共通の祖先の言語とは何なのか。
−−古代(紀元前数世紀)のインドで用いられていた言語です。文字は梵字(デーヴァナーガリー文字)、基本的には今インドで用いられているものと同じです。宗教詩リグ・ヴェーダは世界史に出ていたと思います。時代が下ると形も変わり、ラテン語の子孫がイタリア語であるというのとほぼ同じ意味で、サンスクリット語の子孫はヒンディー語です...という程度の知識は大きい百科事典を見れば必ずあるので、必要に応じて見ておいて下さい。
>インド・ヨーロッパ語族について、私は必ずその共通言語があると思う。でないとやはりユーラシア大陸広域に、似たような言語が存在できないと思うからだ。しかしこう仮定すると、どうやってこれだけの広範囲に広まることができたのかという疑問が起こる。元から人が住んでいれば、その中で互いにコミュニケーションをとるのに言葉ができ、それはインド・ヨーロッパ語族とは異なるものになっていると思われる。
−−サンスクリット語、ギリシャ語、ラテン語の共通の祖先が存在するというのは有力な仮定としてです。文献によっては確認できないので。インド・ヨーロッパ祖語を話した集団がどこにいて、どう拡張していったかは決着のついていない論争の一つです。インド・ヨーロッパ語族以外にも、ユーラシアにはセム語族、ドラヴィダ語族、ウラル語族、シナ・チベット語族などがあったわけで、人口の移動にともない、色々な形で接触があったことが想像されます。歴史言語学の方法によってさかのぼれるのが5000年程度なのに対し、現存人類はその数倍の長さの間地上にいるということが、問題を難しくしているといえるでしょう。クラスでも紹介した風間喜代三『言語学の誕生』(岩波新書)はインド・ヨーロッパ祖語を話した集団の「故郷」の問題についての話を含んでいます。また言語学者ではなく、地理学者が書いた読み物で鈴木秀夫『気候の変化が言語を変えた』(NHK出版)という面白い本があります。
>ラテン語はその後の言語に影響を及ぼしたというが、それはどのような形で残っているのか。
−−ヨーロッパ中世(宗教改革以前)では教会の唯一の正統な言語であり、学問や政治などオフィシャルな場面では必ずラテン語を用いました。こちらの漢文みたいなものです。英語について言えば、翻訳や言語接触を通じて語彙ばかりか語法や文体までも影響を受けました。また、「俗語」(ラテン語に対し、英語、フランス語など日常的に用いられる言語)の文法書が書かれ始めた近世以降、参考にされたのはラテン語文法だったという経緯もあります。
>言語、として設定する”ある言語”のいかんによって言語学の手法も影響を受ける、ということもあるのだろうか?...言語学の成立過程でも、それは影響したのか、が特に気になった。
−−Good pointです。アメリカの構造言語学の主流派は観察可能なデータからできるだけ機械的な手段で分析することを目指しましたが、それは元々文字をもたない民族(アメリカ先住民)で異文化の人を対象にしたことが原因の一つです。チョムスキーの文法理論が出てからは、英語中心の分析が行われることになり(チョムスキー自身は家庭の事情からヘブライ語は知っていたらしいがあまり分析対象とはせず、英語以外で流暢に使える語学はないとのこと)、さまざまな弊害が出ています。19世紀の歴史言語学でも、比較できるインド・ヨーロッパ語が資料として残っていたことが成立の理由だったことはいうまでもありません。
>これ程言語学内での主流の研究が変化しているところから思うに、言語学のある分野を専攻している人は自分の分野がいずれ意味をなさなくなるかもしれないことを恐れるのではないだろうか。
−−まったくもってその通りです。言語学の場合、記述的・実証的研究は長く残ります。知られていない言語の記述やデータベースの作成はその例。また、問題の解決方法は理論の栄枯盛衰によって変わるが、問題の発見そのものは価値ある成果といえるでしょう。
>3枚目の裏側の図式を説明して下さい。
−−そうですね。次までに考えておきます。
PART TWO
*** 全体について ***
>理系的な内容のものから哲学的な内容のものまで、言語理論の中でもっとも興味を覚えたのが「意味論」や「語用論」そして言語の在り方は人間の認知の働き方によって動機づけられているという立場をとる「認知言語学」でした。
−−後期は教養学科(後期課程)の授業で認知意味論の概説をもちますので、できれば出てみて下さい。
>何が言語学において重要な項目であるのかよく分からない。また、言語学の歴史的推移は分かるものの、現在の状況でどんな構造になっているのか分からない。
>第一分冊を通して読む事で、言語学の大まかなおい立ちと今の状況は、ある程度つかめた様に思う。つまり、20世紀に入ってから発生した言語学は、始めはそれを一つの学問として認知させるために客観的なものに研究テーマを向けざるを得ず、...後に人の言語能力の説明という課題にいたってからは、その制約からも解放され、現在では実にさまざまな側面からの分析がなされているという様な。
−−まあ、受け取り方も人それぞれということで。概説のやり方も「積み重ね型」と「天下り型」があって、後者でやれば何が重要な項目であるのか、現在の状況でどんな構造になっているのかを先に示すことになるわけです(例えば「言語学の目標はxxである、それを定めたのはyyという学者である、これをzz理論といい、それが現在の”正しい”アプローチである」というように)。私としては考える過程を尊重したいので、積み重ね型でやっています。
*** プラトンと荀子より ***
>どれくらいの人数、あるいはどのような人が同意、約束すればよいのか、ということが分からない。そもそも、あるものについて、誰かがXXと呼び、それを他の人が同意、約束するということ自体が可能なのかどうか、といった点について、もう少し考えてみたいと思った。
>名と事物の対応は「完全に」恣意的であり、仮にその対応を別のものに変えたとしても全く問題はない、という前提を設定しなければ、国家権力による言語の統一は理論的に成り立たないのだ。
−−なるほど。興味深い意見です。
>ものの名は、ピュセイ、テセイでつくられる2種類の語があるという結論ではなぜだめなのだろうか。
−−私はそれでいいと思います。つけ加えるとすれば、1)問題となる現象が2つ(またはそれ以上)の要因からなっている場合、両者の割合や分布をしっかりとらえることが一番重要であること、2)とかく学者というものは、とりわけ欧米では、折衷主義イコール敗北主義という先入観にとりつかれていること。
*** 『ユリイカ』記事より ***
>サピア=ウォーフの仮説は計算機科学において形式システムの等価性を説くもののごとく、仮説というよりはテーゼという方がふさわしいとはどのようなことを言っているのか。
>サピア=ウォーフの仮説、言語と思考の関係、において”音読”と”語り”とはべつなものなのかどうか。
−−パート1のコメントにも書いたとおり、このプリントは教育的でなかったと反省しています。上の問いに対する答えは次の通りです。まず、「計算機科学において形式システムの等価性」とは、「計算」を行う一般的システム(チューリングマシンなど)がコンピュータの世界では何通りか考えられており、それらが等しいということは「証明」はされていませんが、一般には認められています(その世界では「チャーチの定立[テーゼ]」というそうです)。サピア=ウォーフの仮説も、「証明」はされていないが一部の支持は得ているという点で、なぞらえてみたわけですが、あまり適切な比喩でもないですね。次に、”音読”と”語り”は別物です。「語り」というのは脈絡ぬきで個々の文を発するというのではなく、日常的な場面の中でちゃんとした聞き手がいて、ある出来事についてつながりのある談話を行う、ということをいいます。言いたかったのは、単語やばらばらの文ではなく、談話/文章の形で出来事を把握して伝達活動を行うときに、もっとも言語が思考を規定する可能性があるのではないかということです。
*** 『国語学の50年』より ***
>初期の言語学において、「意味」の問題に立ち入ることが回避されていたと知り、少々驚いた。というのは、言葉の問題で、私が最も興味を持っているのが(大きく言えば)意味の問題であるからだった。
−−まさにその通りです。私の授業などでは「意味の問題が中心的研究課題だ」と言うことにためらいを感じませんが、ちょっと前までは「意味の問題が今後の研究課題だ」という具合でした。
>池上氏による「言語理論」の中で、「ウォーフの論述は一言で言えば言語が思考様式、ひいては「科学」なるものの理論構築の基盤すら、にも関わりうるものだということに注意を喚起し」という箇所がありますが、ここを読む限りではウォーフの「サピア=ウォーフの仮説」は、チョムスキー革命以前の、言語学界において科学的・物理的な方法論が重視されていた当時の風潮にそぐうようなものであったかのように思われます。しかし、大堀先生の「ユリイカ」中の記事では「サピア=ウォーフの仮説」は解読した結果、「言語行動による認識形成」という極めて心理的な結論が導き出されていて、これは前述の池上氏による解説とは明確に対照をなしています。
−−話が多少入り乱れていますが、整理すると...1)戦前のアメリカでは言語研究を「科学」として確立することに多大な関心が向けられていた。2)ウォーフは彼なりの観点からこの問題に取り組んだ。3)それはともかく、言語が思考様式・世界観を規定しうるものだとすると、英語などと異なった言語の世界、たとえばアメリカ先住民の世界観では異なった科学理論が生まれた可能性もある(時制のシステムの違いによる時間論の違いなど)。というわけで、ウォーフの関心は「言語学界において科学的・物理的な方法論が重視されていた当時の風潮にそぐう」ものではありましたが、サピア=ウォーフの仮説そのものは客観的な方法論の確立を目指して出てきたものではないので、ひとまず分けて考えていいと思います。池上氏が「『科学』なるものの理論構築の基盤すら、にも関わりうる」という時は、経験的学問をこえた一種のメタ的な科学方法論としてサピア=ウォーフの仮説をとらえることができるということです。
>チョムスキーは最近のインタビュー...で「何千年に及ぶ言語研究の歴史を通じて過去10-15年間が最も成果の上がった期間だった」と語っているが、...
−−誰でも自分の時代はよい時代だったと思いたがるものです。
>チョムスキーに始まる最新の言語理論を日本語の受動態の文意も当てはめられるのか、またチョムスキーのいう「普遍文法」に日本語も英語も、ゴイサン族の言語もすべてひっくるめてよいのだろうか、という疑問は前からあった。
>現在なされている言語研究は、明確な文法構造をもつヨーロッパの言語を対象にしているようだが、全く別の体系をもつ言語の場合にも理論はあてはまるのか。例えばタイ語は、はっきりした『文法規則』というものをもっていない。...タイ語においては、単に口から発せられる音(あるいは文字化された言葉)からなるものに加えて、相手との暗黙の了解のようなものが、大きな部分を占めていると思う。この暗黙の了解は、人間の認知の営みに関わる問題として、一番上に書いたような、表現法や語調の違いと同次元で考えてよいのだろうか。
−−もっともな疑問です。チョムスキー理論自体変遷を経ていますが、「英語中心主義」と「拡張主義」の間で行ったり来たりという経緯が何度かあったと思います。いつでも英語が理論のベースになり、そうした英語中心の分析を他の言語に適用しつつ修正を行う形で発達してきたわけです。私はチョムスキー理論には批判的なので上の問いにはノーと答えますが、支持者ならばイエスと答えるでしょう。この点については授業の後の方でふれる機会があればと思います。ちなみに、タイ語が文法をもたないというのは誤った考えで、英語流の文法をもたない、と読み換えねばなりません。
>脳に関する研究は、最近になって大いに発達し、またこれ以後も最も発展が見込まれる仕事の一つであるが、言語学は、これと結びついて新たな段階に達することを望むのだろうか。あるいは、その発達プロセス同様、物理的な世界を離れ、より概念的な方向へ進んでいくのだろうか。...意味論を扱うようになった現在の言語学において、議論が反証主義でいうところのアドホックな枠組みに陥ることはないのだろうか。上の脳に関する質問とともに科学(いわゆる自然科学)との連続性が気にかかる。
>もし自分が人の言語能力を理解するという立場に立ったとしたら、おそらく書かれていたこととは全く違った、より直接的かつ客観的な方法をとるだろう。それは、人の脳の言語野の部分部分に電気刺激を与えて、それによる影響を見たり、大勢の生まれたての赤ちゃんの言語修得過程とその環境との関係のデータをとって分析したり、言語障害を持つ人の損傷部位とその影響を調べたり等。
−−「新たな段階に達することを望む」ことは間違いありません。もちろん、脳科学も言語学も十分に交流できるほど理解が進んでいませんが(脳科学が万能でないことは当事者がいちばんよく知っていると思います)。自然科学との連続性については、私は「ある」と考えます。ここで重要なのは、仮説の正しさを示す証拠は脳内の物理的状態についての記録だけではないということです。言語そのもののデータ(歴史的データや習得データも含む)や計算機上のシミュレーションデータも重要性においてはひけをとらないということをとりあえず言っておきます。物理的還元主義/決定論は時として警戒せねばならない考えで、「脳の状態がわかれば知的活動の全てがわかる」というのは「DNAが解読されれば生物学の全てがわかる」というのと似たところがあり、どちらも「環境との相互作用」が欠落しています。このあいだ私が英語の授業で使ったLewontin; Biology as Ideologyという本はこの点について重要な示唆を与えてくれます。
>私は池上嘉彦先生のファンで記号論関係の著作やエーコの訳書など大体読んだのですが、今現在、池上先生は何をなさっているのでしょうか。
−−もちろんお元気です。4年前に東大退官後、昭和女子大学で教えています。
*** 「言語の構造」より ***
>...読後感としては、抽象的な論が続き、捉えにくい文章であった、という感想も否めない。実質的な言語理論を理解する難しさを痛感した、というのが正直なところである。
>...最も重要であるはずの「形式」と「実質」を区別して考える、という概念そのものが「つまりどういうことを言っているのか」がよく理解できなかった。
−−授業が進んだところでまた読み直して下さい。
>音の連続的変化と、各言語におけるカテゴリーという話を聞いてふと思い付いたのは、ヴァイオリンとギターの違いだった。...ヴァイオリンでは指の位置を少しずつずらすこと(=音声表現の無限の変化)によって、無数の音色を出す...ことができる。ところが、ギターのネックには有限個の金属の閾がついており、ある一定の範囲内ではどこに指をおいても...同じ音が出る(言語のカテゴリーに収められた聞き取られ方をする)。
−−Nice pointだと思います。
>...実在界の切れ目を理解し識別する手段としてここで考えられている言語は、講義の中でいう「構造論的」な分節作用を持つ言語でしかないように思われる。それに対し、もっと絶対的で普遍的な「理解の枠組み」を、例えば数学的機械論が示すような形で作ることはできるのか、逆に、それができない科学が「言語」を解明できるのか。
−−賛否両論です。できると考えた人たちは、たとえば論理学の体系を作っていったわけです。私はできない、または究極の目的ではないと考えます。
>選択的関係と統合的関係の章がはっきりわかりません。
>「選択的関係と統合的関係」から理解できなくなった。...そのものの意味がよくわからない。選択的とはa...cup of milkの...に入る部分の単語間の関係で、統合的とはa
cup of milkの単語のつながり方の事をいっているのでしょうか。
−−選択的(paradigmatic、範列的とも)関係とは、同一の構造的ポジションに現れることのできる要素間の関係です。これに対し、統合的(syntagmatic、連辞的とも)関係とは、言語要素の連続において前後にどのような要素が結合するかという関係です。例えばlargeという語について見ます。a large cup of milkという表現の中で同一の構造的ポジションを占める可能性のある要素は、a...cup of milkの...の部分に出る語ということですから、small, niceなどが他に考えられます。この場合、largeはsmallやniceとparadigmaticな関係にあるといいます。いっぽうlargeという語は前後に結合するのがaやcupで、この場合それらとsyntagmaticな関係にあるといいます。同じことは他のレベルでもいえて、pinを例にとれば、この場合pは同じ場所にあらわれうるb(その場合bin)やk(その場合kin)とparadigmaticな関係をなし、後続するiとはsyntagmaticな関係をなします。なお、テキストでも言っていますが、syntagmaticな関係は直前・直後のものでなくてもあり、文レベルでいえば、日本語の係り結びなどは一つの例でしょう。
>自由変異が何なのかよくわかりません。
>自由変異の部分。自由変異とは脈絡中の機能の同値と説明されているが、例では「leapとgetという...が、economicsという単語の二様の発音においては自由変異をなす」とある。説明と例がかみ合っていないような気がするのですが。
−−音素の規定をやった後ではわかると思いますが、基本的には意味の差をもたらさないバリエーションのことです。日本語ではfとhは/h/の音素レベルの自由変異で、「パラフィン」といっても「パラヒン」といっても示差的ではありません。英語のeconomicsはこれとはちょっと違って、自由変異が観察されるのは音素レベルではなく単語レベルです。leapの「イー」のように「イーコノミクス」といってもgetの「エ」のように「エコノミクス」といってもよいわけです。/e/と/i:/はもちろん単独の音素としては示差的に対立します。
>そもそも人はなぜ聴覚によって言語コミュニケーションをするかという疑問は前からあった。2.2.6によってある程度は理解できたが、聴覚以外の可能性についても知りたい。
−−興味深い質問です。比較行動学的な観点から人間の言語を見る研究はそれなりにあって、最近の研究は残念ながら知らないのですが、古典的なものはHockettという人のものがあります。紹介程度ならいくつかの概論書にあるので見てみると良いでしょう。N. ヒッカースン『ヒトとコトバ』(大修館)はおすすめ。参考図書にあげた鈴木孝夫『教養としての言語学』(岩波新書)にも関連する説明があります。私なりの考察を手短に言っておくと、まず触覚は離れていると使えないので不便、味覚も同じ制約がある。嗅覚は離れてもOKだが、すぐに消えてくれないので連続したメッセージは送れない(匂いA、匂いB、...とはいかない)。残るは視覚か聴覚ということになるわけです。視覚か聴覚かの選択は進化上の偶然(?)もあるでしょうが、音声言語は夜や物陰にいて相手が見えないところでも伝達ができるという強みはあります。物を手にもっていても使えるし。進化という面では都合がよかったのはではないかと思います。
*** その他 ***
>なぜローマでは主に文法研究やテクスト研究がさかんとなったのか。
−−ギリシャの場合も含めていえば、方言が多様だったこと、古典の研究がさかんだったことがまず動機として考えられます。あと、政治的な力をふるうためには会議などでの弁論術が必須であり、文法はそのための基礎的な知識とされていたこともあります。
>西洋における思弁的文法とは何か。
−−長い説明はできませんが、中世のスコラ哲学(それがどういうものかはおいといて)の文法理論です。中世というと「暗い」イメージが強く、哲学も天使の羽根の数を議論したりと思われがちです。その一方で、認識や存在についての精緻な体系が発達しており、それに基づいた文法があったということです。われわれが「xxという文型はyyという意味を表す」という時、「意味」についてはけっこう雑な規定しかしないことがあるのですが、思弁的文法ではそうとう細かい(時にやたら理屈っぽい)規定がされているとのことです。
>しかし、インドとヨーロッパの地理的な環境を見る限り...中間に位置するアラビアや、トルキスタンの言語の方がより西欧語に近いのではないだろうかという考えに到達する。...自分なりの考えをまとめてみた。1)サン・スクリット語による文書は、7Cのコーランよりもはるかに古い2C以前頃から存在している。2)民族移動の通過点であるトルキスタンよりも、到達点であるインドの方が、印欧語との変化がより顕著で比較しやすい。3)トルキスタン・アラビアの言語ももちろんインド・ヨーロッパ語族に属しているため、それ以上述べる必要性はあまり認められない。
−−一般論からいうと、言語集団というのは多様な移動をし、その上何重にも層をなすので、簡単には割り切れないところがあります。現代(および記録に残る過去)の分布が語族の近親性に直結するとは考えない方がいいでしょう。インドとヨーロッパの間にある言語がよりヨーロッパの言語に近いというのは事実とは違います。語族としてはアラビア語はセム語族、トルケスタンの諸言語はアルタイ語族に属します。
>言語学における文字の扱いはどうなっているのか?たとえば、未解読文字...の研究などは言語学者も行っているのか?
−−もちろんいます。ただ、ヨーロッパのアルファベットはあまり面白いものではないのであちらの概説書では話題になりません。いっぽうアジアでは多様な文字があるので研究が発達しています。京都大学にいた西田龍雄という先生は中国の漢民族ではない人たちの文字研究の大家です。正確な書名は忘れましたが、「アジアの未解読文字」といった題の本を出していたと思います。
>日本語をはじめとする多くの言語では、いわゆる「文語」と「口語」の区別がある...古代の人々が「話して」いた言葉を知ることはできないのだろうか?
−−録音はもちろんありませんが、当時の辞書(方言を含む)や、平家琵琶などの台本(ていうのかな?)にあるアクセントの表記などは参考資料となるそうです。語法や文法の研究の場合は、物語などで地の文と会話の文とを分けて分析するなどの方法がとられています。
>...ただし、ここでは日本については何も言及されていない。日本でも古代(平安時代頃まで)における言葉や文字の変遷がかなりあったはずだが、それらについての研究などは、当時はなされていなかったのだろうか。
−−上にも書きましたが、辞書は平安の頃からありました。方言やアクセントなどの記述もあったようです。歴史的変化についての体系的な研究はなかったようです。やや時代が下るとその時代から見た古典(万葉なり源氏なり)の解釈が出てきて、それは歴史的研究といえます。まあ、授業で多少は日本での言語研究の話もしたとは思うのですが...
>...僕は中学生のとき漢文の返り点を習って、昔の人々の苦労を想像した。
−−余談ながら、幕末・明治のころにヨーロッパの言語を読み下す訓練をしたときは漢文訓読の方法が生かされた(?)という話があります。皆さんが受験などで身につけた「戻って訳す」やり方は漢文訓読の遺産だったのです。さらに余談ながら、朝鮮では漢文は書いてあるとおりに音読したとのことです。
>江戸期は鎖国によって閉鎖されていたと考えられるが、精密な文法研究はいづれかの言語との比較において成り立ったのか、それとも日本語それ自体の研究だったのか。
−−後者です。具体的には本居宣長とその弟子。
>しかし、彼[=ソシュール]の言語の混沌に対する一種、妥協的なアプローチであった...それらの取り組み方に対するいわゆるポスト構造主義の概念は、結局、ソシュールの構造言語学以前への回帰に過ぎないように思われるのですが、どうでしょうか。つまり、理想的な共時態が存在し得ないことを仮に認めるとしても、そのような仮定なしに言語のような錯綜した体系を研究し得るのでしょうか。
>20世紀の言語学を学ぶ上で最も重要なのはやはりソシュールであろう。彼自身の講義の内容や『一般言語学講義』、あるいは構造主義について、概説だけでも知っておきたいと思う。
>ただ、私は今まで、現在の構造主義的言語学と呼ばれているものが言語学の領域で主流と成っていると思い込んでいたが、その考えはもう古いらしい、ということには軽い衝撃を受けた。しかし、中心となった人間の関わりを考える認知言語学に到る過程がなんとなくしかわからなかったため、五十年前の考え方との関係がよく理解できていない。
>ソシュールは年代的には19世紀の比較言語学者といってよいのはなぜか。
−−始めの数回の授業ではソシュールが中心人物になっていましたが、現在ではそれに積み重なる形で多くの研究があるということも知って下さい。具体的には文法と意味の研究(含む認知言語学)、およびヨーロッパとは違う言語の知識に基づいた類型論的研究などが現在の主流の重要な一部です。ソシュールが年代的に19世紀の人だというのは、生前の業績や評価だけを見た場合、同時代人は新しいパラダイムの創設者としては彼を見ておらず(『講義』は授業のノートをもとに死後出版されたもの)、比較言語学の懸案の問題を解決した大秀才として尊敬していたという経緯によるものです。
>命名主義、機械主義、自律主義、構成主義とかそれぞれどのような考え方か。
>言語理論の関係図にある自律主義というのは言語に対する人間の関わりを排除する傾向のことと考えてよいのでしょうか。
−−命名主義とは、あらかじめ外界にあるモノに対して名前を貼りつけるのが言語の役割であるとする立場です。この場合、言語による経験世界の分節という考え方は排除されます。「緑」はあらかじめ存在する緑のモノにつけるラベルということになります。プラトンなどの古典的な哲学では言語以前の普遍的な存在や概念が中心となっていたので命名主義と読んでおきました。これに対し現代的な言語観(少なくともその重要な一部)では、言語によって概念なり存在なりをカテゴリー化すると考えます。このような、言語が積極的に経験を構成するはたらきをもつという考え方が構成主義です。この立場では色彩の連続体から「緑」という語によって切り取ることで緑という色が成立するのだということになります。ソシュール的な意味での言語の恣意性やサピア=ウォーフの仮説などは(それぞれ角度は違え)構成主義的な考えといえます。自律主義とは上の質問の通り、「言語に対する人間の関わりを排除する傾向」です。これは構成主義的な考えと必ずしも矛盾も共鳴もしませんが、言語の自律性を厳格に考え、形式面だけに集中すると構成主義の色合いは薄れていきます。同じアメリカの構造主義でもブルームフィールド派はこの傾向が強いことで知られています。分析手続きから意味・解釈に関する考慮を排除することを目指したという点で、このアプローチは機械主義的といえます。チョムスキー派は言語の実在を人間の知識(=心理的状態)におくという点でブルームフィールド派とは異なりますが、自律主義についてはさらに純度を高めつつ継承したといえるでしょう。ポスト・チョムスキーという形で出てきた最近のアプローチは、心理主義は共有しつつも自律主義を弱め、構成主義の意義をふたたびまじめに究明しようという試みです。
>最近、文化人類学の授業中に聞いたお話で、何となく頭に残っているのですが「どうしてある言語音の子音と母音はくっきり区別して聞くことは誰にとってもほぼ不可能なことなのに、人間の言語音というのは母音と子音の2つの音素による複合体と考えられるのだろうか?母音と子音という概念はなぜこんなに繁栄しているのか?」ということです。
−−とても面白い質問です。「なぜこんなに繁栄しているのか」という問いに対しては、アルファベットが母音と子音に分かれているので「なりゆき上」、「とりあえず便利だから」というのが実状だと思います。単純に考えてもyやwのような「半母音」があるので二つに分けるだけでいいとは思いません。もう少し合理性のある分け方は「響き度sonorityの高低」です。言語によっては母音がない単語もあります。それでも、tlkなどのように響き度の低い子音(t, k)に高い子音(l)が挟まれていれば発音は可能です。英語のbirdも実際にはbとdの間にあるのは独立した母音というよりは「rがかった曖昧な音」という感じです。音響分析をすれば針のふれで響き度は区別可能ですし、われわれの耳も(連続体としてではあっても)響き度という点ではそれなりの区別をもって聞いていることは確かです。