総合科目「一般言語学」(98年夏学期)T. OHORI

[このファイルは、大堀担当「一般言語学」(98年前期)のレポートの一部として出されたコメントをアップしたものです。授業の参加者以外にとっても何かの役に立てばと思います。クラスからの質問・コメントは>印で示し、こちらのコメントは−−で始めています。]

PART ONE

*** 全体について ***

 

*** プラトンと荀子より ***

>プラトンの「クラテュロス」のつづきを教えて下さい。

>『クラテュロス』に目を通して感じたのですが、...何に関してでも着想や発見や定義づけ、論理においてどれほどの前提が学問上必要とされるのか見当がつかないのです。

>荀子の説で、どうして聖王が必要になるのかがよく分からない。ものの認識が感覚にもとづき、その感覚が万人共通なら、感覚表現にもとづいた名前をつければいいと思う。

>こうして考えてみると、言語学あるいはことばそのものが存在する前提として、社会的な慣習が必要になるといえるでしょう。それでは一度社会的に概念が受容されて名称はできたものの、その後概念自体が人々に受け入れられなくなったことばはどうなるのでしょうか。例えば「忠」などということばは、一部の人を除いてほとんど意識しない概念となっています。このようなことばは「死んだもの」と扱われるのか、あるいは「生きた言葉」とされるのか...

>一番最初に名前をつけた人は、その対象の本性に関わる名前を考えたにちがいない。...しかし、名前が定着し、人々に使われるのは慣習によると思われるし、名前と対象の本性が関係していても、必ずしもその名前で呼ばれなければならないという必然性の根拠はないので、荀子らの説を支持できる。

>...ただ分かったのは、これほど昔の人は哲学的な会話をしていたのだな、ということである。

 

*** 『ユリイカ』記事より ***

>サピアについての文章が何をいっているのか、何のために収録されたのか分からない。
>当初傍流であったようなニュアンスにもとれる「サピア・ウォーフの仮説」の位置づけがよくわかりません。
>ユリイカのは、まったくの門外漢にはとりあえずサピアとは誰か、ということ、そして、なぜ彼が鬼子なのかということもよく分からないということ。
>サピアの業績は認めるべきものだろうと思うが、生前にあまり評価されなかったというのは残念だ。

 

*** 『国語学の50年』より ***

>「国語学の五十年」のいいたい所が分からなかった。
>池上嘉彦「言語理論」について、明確に理解することができない用語が多い。現段階で読んでも得るものは少ないと思う(成層文法、生成意味論、認知言語学、語用論)。行動主義というのは意味論を議論するときはじめて問題になるのではないか、と思う。
>変形文法理論と、生成意味論がよく分からないので、説明して下さい。あと、成層文法とは、どのようなものですか。

>チョムスキーの登場については分かるのだけれども、その詳しい内容については分からない。

>チョムスキーの言語学の「有限の文章のパターンとその有限の変形で、無限の組み合わせを作る」という考え方はとても面白いと思った。

>チョムスキー以前の「アメリカ構造言語学」とヨーロッパの構造主義的言語学とが比較されるのがよくわかりません。...ヨーロッパは構造主義的かつ主観的であったということなのですか?ソシュールを近代の祖としている限りそうであるとはあまり思えないのですが。

 

*** 「言語の構造」より ***

>ライオンズの「言語の構造」の抜粋は、一体どのような意図をもって含まれていたのでしょうか?

>ラングとパロールは一度習ったことがあるんですが、忘れてしまいました。

>ライオンズ「言語の構造」について、それなりに分かりやすかった。ただ、一部分からないところもあった(二重構造、形式と実質、要素体系)。
>言語の二重分節とは何か。音声そのものがイメージを喚起することは考えられることであって、機能的に文章中で述べられている機能のみということではないのではないか。

>結果として生じる句や分が意味をもつかどうかに関係づけられない「生起の可能性」とは何か。

>”音的実質と図形的実質の間に物理的な安定性に相違がある”とあるが、例えば英語は主に話すことにウェイトがあり、日本は書くことにウェイトがあると言われるように、言語の違いでその安定性にも大きな影響があるのか。

>”実質と形式”が把みにくく<2.2.2>で示されるソシュールの見解(意味の実質を言語とは独立して人類に共通している思想感情の総体)という部分と前後のつながりがよく理解できません。
>色の呼びわけはまさしく虚構の分節による。虚構だから必然性はない。言語、つまり文化によってまちまちだ。...ことばは虚構の分節化を行うものであり、それは言語によって異なる分節化を行うからだ。
>翻訳は、1つの言語から他の言語への完全な投影とはなり得ないのだ。例えば英語で書かれた文章があったとする。ある人がそれを和訳し別の人がその逆に英訳したとする。最初の英語の文章と、2回の翻訳の過程を経た英語の文章を比較したときどんなことが予想されるだろうか。おそらく2つの文章が全く同一ということはあり得ないだろう。用いられる語彙や文型が多少異なり、そのためにニュアンスが微妙にかわっているところもあるだろう。これは翻訳者の技量の問題ではない。むしろ言語の特質そのものの問題である。異なった概念体系の上に成り立つ異なった形式にまたがる変換であるがゆえに、いかなる翻訳も完全ではあり得ないのだ。
>言語による経験世界の分節の恣意性...言語の構造が人間の認識や思考を規定しているというと何か、言語が人間の認識枠組みや思考の自由さを奪っているようにも聞こえるが、言語ができたばかりの時には、むしろその逆で、人間の認識を最も効率がいいように定めてくれていたのだ。言語を習得することによって、その特定の環境で生きている際に便利な認識方法も身につけることができたと言える。つまり、言語の構造は全く偶然的に決まっていったものではなく、生物の特質・特徴のように、まわりの環境によってかなりの部分必然的に決定されてきたのではないだろうか。

>ライオンズ「言語の構造」についてだが、後半になるにつれて意味不明の個所が多くなり、読んでいていらいらしてくる。

>2.3.8節、数式を見ると頭がくらくらしてくる、というわけではないのだが、この部分は何を言っているのかさっぱり分からなかった。

 

*** その他 ***

>サンスクリット語とは何か?どういう文字でできており、どういう場所で、いつ使用されていたのか。...サンスクリット語、ギリシャ語、ラテン語の共通の祖先の言語とは何なのか。

>インド・ヨーロッパ語族について、私は必ずその共通言語があると思う。でないとやはりユーラシア大陸広域に、似たような言語が存在できないと思うからだ。しかしこう仮定すると、どうやってこれだけの広範囲に広まることができたのかという疑問が起こる。元から人が住んでいれば、その中で互いにコミュニケーションをとるのに言葉ができ、それはインド・ヨーロッパ語族とは異なるものになっていると思われる。

>ラテン語はその後の言語に影響を及ぼしたというが、それはどのような形で残っているのか。

>言語、として設定する”ある言語”のいかんによって言語学の手法も影響を受ける、ということもあるのだろうか?...言語学の成立過程でも、それは影響したのか、が特に気になった。

>これ程言語学内での主流の研究が変化しているところから思うに、言語学のある分野を専攻している人は自分の分野がいずれ意味をなさなくなるかもしれないことを恐れるのではないだろうか。

>3枚目の裏側の図式を説明して下さい。

 

PART TWO

*** 全体について ***

>理系的な内容のものから哲学的な内容のものまで、言語理論の中でもっとも興味を覚えたのが「意味論」や「語用論」そして言語の在り方は人間の認知の働き方によって動機づけられているという立場をとる「認知言語学」でした。

>何が言語学において重要な項目であるのかよく分からない。また、言語学の歴史的推移は分かるものの、現在の状況でどんな構造になっているのか分からない。
>第一分冊を通して読む事で、言語学の大まかなおい立ちと今の状況は、ある程度つかめた様に思う。つまり、20世紀に入ってから発生した言語学は、始めはそれを一つの学問として認知させるために客観的なものに研究テーマを向けざるを得ず、...後に人の言語能力の説明という課題にいたってからは、その制約からも解放され、現在では実にさまざまな側面からの分析がなされているという様な。

 

*** プラトンと荀子より ***

>どれくらいの人数、あるいはどのような人が同意、約束すればよいのか、ということが分からない。そもそも、あるものについて、誰かがXXと呼び、それを他の人が同意、約束するということ自体が可能なのかどうか、といった点について、もう少し考えてみたいと思った。
>名と事物の対応は「完全に」恣意的であり、仮にその対応を別のものに変えたとしても全く問題はない、という前提を設定しなければ、国家権力による言語の統一は理論的に成り立たないのだ。

>ものの名は、ピュセイ、テセイでつくられる2種類の語があるという結論ではなぜだめなのだろうか。

 

*** 『ユリイカ』記事より ***

>サピア=ウォーフの仮説は計算機科学において形式システムの等価性を説くもののごとく、仮説というよりはテーゼという方がふさわしいとはどのようなことを言っているのか。
>サピア=ウォーフの仮説、言語と思考の関係、において”音読”と”語り”とはべつなものなのかどうか。

 

*** 『国語学の50年』より ***

>初期の言語学において、「意味」の問題に立ち入ることが回避されていたと知り、少々驚いた。というのは、言葉の問題で、私が最も興味を持っているのが(大きく言えば)意味の問題であるからだった。

>池上氏による「言語理論」の中で、「ウォーフの論述は一言で言えば言語が思考様式、ひいては「科学」なるものの理論構築の基盤すら、にも関わりうるものだということに注意を喚起し」という箇所がありますが、ここを読む限りではウォーフの「サピア=ウォーフの仮説」は、チョムスキー革命以前の、言語学界において科学的・物理的な方法論が重視されていた当時の風潮にそぐうようなものであったかのように思われます。しかし、大堀先生の「ユリイカ」中の記事では「サピア=ウォーフの仮説」は解読した結果、「言語行動による認識形成」という極めて心理的な結論が導き出されていて、これは前述の池上氏による解説とは明確に対照をなしています。

>チョムスキーは最近のインタビュー...で「何千年に及ぶ言語研究の歴史を通じて過去10-15年間が最も成果の上がった期間だった」と語っているが、...

>チョムスキーに始まる最新の言語理論を日本語の受動態の文意も当てはめられるのか、またチョムスキーのいう「普遍文法」に日本語も英語も、ゴイサン族の言語もすべてひっくるめてよいのだろうか、という疑問は前からあった。
>現在なされている言語研究は、明確な文法構造をもつヨーロッパの言語を対象にしているようだが、全く別の体系をもつ言語の場合にも理論はあてはまるのか。例えばタイ語は、はっきりした『文法規則』というものをもっていない。...タイ語においては、単に口から発せられる音(あるいは文字化された言葉)からなるものに加えて、相手との暗黙の了解のようなものが、大きな部分を占めていると思う。この暗黙の了解は、人間の認知の営みに関わる問題として、一番上に書いたような、表現法や語調の違いと同次元で考えてよいのだろうか。

>脳に関する研究は、最近になって大いに発達し、またこれ以後も最も発展が見込まれる仕事の一つであるが、言語学は、これと結びついて新たな段階に達することを望むのだろうか。あるいは、その発達プロセス同様、物理的な世界を離れ、より概念的な方向へ進んでいくのだろうか。...意味論を扱うようになった現在の言語学において、議論が反証主義でいうところのアドホックな枠組みに陥ることはないのだろうか。上の脳に関する質問とともに科学(いわゆる自然科学)との連続性が気にかかる。
>もし自分が人の言語能力を理解するという立場に立ったとしたら、おそらく書かれていたこととは全く違った、より直接的かつ客観的な方法をとるだろう。それは、人の脳の言語野の部分部分に電気刺激を与えて、それによる影響を見たり、大勢の生まれたての赤ちゃんの言語修得過程とその環境との関係のデータをとって分析したり、言語障害を持つ人の損傷部位とその影響を調べたり等。

>私は池上嘉彦先生のファンで記号論関係の著作やエーコの訳書など大体読んだのですが、今現在、池上先生は何をなさっているのでしょうか。

 

*** 「言語の構造」より ***

>...読後感としては、抽象的な論が続き、捉えにくい文章であった、という感想も否めない。実質的な言語理論を理解する難しさを痛感した、というのが正直なところである。
>...最も重要であるはずの「形式」と「実質」を区別して考える、という概念そのものが「つまりどういうことを言っているのか」がよく理解できなかった。

>音の連続的変化と、各言語におけるカテゴリーという話を聞いてふと思い付いたのは、ヴァイオリンとギターの違いだった。...ヴァイオリンでは指の位置を少しずつずらすこと(=音声表現の無限の変化)によって、無数の音色を出す...ことができる。ところが、ギターのネックには有限個の金属の閾がついており、ある一定の範囲内ではどこに指をおいても...同じ音が出る(言語のカテゴリーに収められた聞き取られ方をする)。

>...実在界の切れ目を理解し識別する手段としてここで考えられている言語は、講義の中でいう「構造論的」な分節作用を持つ言語でしかないように思われる。それに対し、もっと絶対的で普遍的な「理解の枠組み」を、例えば数学的機械論が示すような形で作ることはできるのか、逆に、それができない科学が「言語」を解明できるのか。

>選択的関係と統合的関係の章がはっきりわかりません。
>「選択的関係と統合的関係」から理解できなくなった。...そのものの意味がよくわからない。選択的とはa...cup of milkの...に入る部分の単語間の関係で、統合的とはa cup of milkの単語のつながり方の事をいっているのでしょうか。

>自由変異が何なのかよくわかりません。
>自由変異の部分。自由変異とは脈絡中の機能の同値と説明されているが、例では「leapとgetという...が、economicsという単語の二様の発音においては自由変異をなす」とある。説明と例がかみ合っていないような気がするのですが。

>そもそも人はなぜ聴覚によって言語コミュニケーションをするかという疑問は前からあった。2.2.6によってある程度は理解できたが、聴覚以外の可能性についても知りたい。

 

*** その他 ***

>なぜローマでは主に文法研究やテクスト研究がさかんとなったのか。

>西洋における思弁的文法とは何か。

>しかし、インドとヨーロッパの地理的な環境を見る限り...中間に位置するアラビアや、トルキスタンの言語の方がより西欧語に近いのではないだろうかという考えに到達する。...自分なりの考えをまとめてみた。1)サン・スクリット語による文書は、7Cのコーランよりもはるかに古い2C以前頃から存在している。2)民族移動の通過点であるトルキスタンよりも、到達点であるインドの方が、印欧語との変化がより顕著で比較しやすい。3)トルキスタン・アラビアの言語ももちろんインド・ヨーロッパ語族に属しているため、それ以上述べる必要性はあまり認められない。

>言語学における文字の扱いはどうなっているのか?たとえば、未解読文字...の研究などは言語学者も行っているのか?

>日本語をはじめとする多くの言語では、いわゆる「文語」と「口語」の区別がある...古代の人々が「話して」いた言葉を知ることはできないのだろうか?

>...ただし、ここでは日本については何も言及されていない。日本でも古代(平安時代頃まで)における言葉や文字の変遷がかなりあったはずだが、それらについての研究などは、当時はなされていなかったのだろうか。

>...僕は中学生のとき漢文の返り点を習って、昔の人々の苦労を想像した。

>江戸期は鎖国によって閉鎖されていたと考えられるが、精密な文法研究はいづれかの言語との比較において成り立ったのか、それとも日本語それ自体の研究だったのか。

>しかし、彼[=ソシュール]の言語の混沌に対する一種、妥協的なアプローチであった...それらの取り組み方に対するいわゆるポスト構造主義の概念は、結局、ソシュールの構造言語学以前への回帰に過ぎないように思われるのですが、どうでしょうか。つまり、理想的な共時態が存在し得ないことを仮に認めるとしても、そのような仮定なしに言語のような錯綜した体系を研究し得るのでしょうか。
>20世紀の言語学を学ぶ上で最も重要なのはやはりソシュールであろう。彼自身の講義の内容や『一般言語学講義』、あるいは構造主義について、概説だけでも知っておきたいと思う。
>ただ、私は今まで、現在の構造主義的言語学と呼ばれているものが言語学の領域で主流と成っていると思い込んでいたが、その考えはもう古いらしい、ということには軽い衝撃を受けた。しかし、中心となった人間の関わりを考える認知言語学に到る過程がなんとなくしかわからなかったため、五十年前の考え方との関係がよく理解できていない。
>ソシュールは年代的には19世紀の比較言語学者といってよいのはなぜか。

>命名主義、機械主義、自律主義、構成主義とかそれぞれどのような考え方か。
>言語理論の関係図にある自律主義というのは言語に対する人間の関わりを排除する傾向のことと考えてよいのでしょうか。

>最近、文化人類学の授業中に聞いたお話で、何となく頭に残っているのですが「どうしてある言語音の子音と母音はくっきり区別して聞くことは誰にとってもほぼ不可能なことなのに、人間の言語音というのは母音と子音の2つの音素による複合体と考えられるのだろうか?母音と子音という概念はなぜこんなに繁栄しているのか?」ということです。

 

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