ピエール・クロソウスキー:イマージュの作家

ピエール・クロソウスキー:イマージュの作家

 前回の『バルタザールどこへ行く』に引き続いて、映像関連のソフトの紹介を。これはアラン・フレッシャー(Alain Fleischer, フライシャー?)監督による、1996年制作のドキュメンタリー映画Pierre Klossowski, Un écrivain en imagesの日本語字幕版(ビデオ発売元:ユーロスペース)である。

 「イマージュが私を導く。ヴィジョンを物語れとヴィジョン自体が要求する」。冒頭のクロソウスキー自身のこの言葉が、この映画を制作するに至った監督の関心のすべてを表わしている。70年代以降、タブローと呼ばれる絵画制作をその活動の中心にすえるようになったクロソウスキーの真意を解きほぐしていくような形で映画は始まる。仕事机に向かう年老いたクロソウスキー。小柄で年老いてはいるが、眼光は鋭い。

 「タブロー(描かれたもの)はエクリチュール(書かれたもの)に先行する。語りとは状況を喚起するために言葉に与えられた役目に過ぎない。そしてすべてがイマージュから生まれるのだ」、あるいは「文学は造形芸術に脅かされている」といったクロソウスキーの言葉。こういった「イマージュの優位に関する発言」は、絵画制作が盛んになるにつれて顕著になったものではあるが、これは当然文学と造形芸術の優劣を論じたものではない。本人が述べているように「書く」ことと「描く」ことは「イマージュの表裏」であり、どちらも「ヴィジョンが自らを物語れと要求した結果の行為」に他ならない。したがって、クロソウスキーが文筆活動を始めた時点から、いやおそらくはもっとずっと以前から、彼は何らかのイマージュにとりつかれていたのだといえる。では、なぜ彼は絵画制作に赴いたのか。彼はこう語る。「書かれた言葉はあらぬ誤解を生みやすい。絵はそれを観る人に何らかの衝撃を与えることができる」。彼は言葉のもつ大きな力を認めつつも、同時に言葉への根本的な疑いをもっていたようである。クロソウスキーが『わが隣人サド』や『ニーチェと悪循環』、あるいは『歓待の掟』などといった著作のなかで言語の問題について繰り返し書くのは、彼の活動がひとえにコミュニケーションへの強い関心に基づいているからに他ならない。彼は少しでも他者との直接的・無媒介的なコミュニケーションを成立させたいという要求、というよりも自分を突き動かすヴィジョンを他者に開示したいという欲望に憑依されているのである。

 映画はその生い立ちにも触れている。一家が第一次大戦期に旅を繰り返していたことやジッドの家に住み込んでリセに通っていた時代のエピソード、両親の不和、なかでも母とリルケの不倫関係をクロソウスキー自身がほのめかしたりしていて興味は尽きない。

 このドキュメンタリーのなかでもとりわけ興味深いのは、クロソウスキーの1996年当時の「現在」が克明に語られている点である。彼は世捨て人のように家に引きこもったりはせず、カフェでくつろぎ、公園で妻ドニーズと若い恋人同士のように(!)じっと見つめあい、パレ・ロワイヤルでまるでチャップリンのようにステッキをくるくると振り回す茶目っ気も見せる。アラン・アルノーがこの映画のなかで指摘するように、彼の作品や関心は歴史的な時間軸を超越したものでありながら、本人はしっかりと「いま」という時間を生きていたことを実感させる。

 妻ドニーズとの関係も関心を呼び起こす。1996年現在、彼女に手を引かれてパリの自宅とアトリエを歩いて往復するのが日課となっているということだが、その様子がまた何とも微笑ましい(余計な話だが、自分も結婚して年をとったらこんな夫婦でありたい)。クロソウスキーはドニーズを小説や絵画のモデルとしてたびたび登場させ、ついには映画『ロベルト』にまで出演させてしまったが、本人たちはそれをどう考えているのか、といったことにも焦点が当てられている。クロソウスキーは詩人A.ジュフロワとの対談で、ややすまなそうに「ドニーズにロベルトのイマージュを与えてしまった」と言って妻に配慮を示しつつも、同時に自分のしていることの正しさを確信しているそぶりを見せる。「ドニーズも私を恨んではいないはずだ」と熱を込めて語るその姿は鬼気迫るものすら感じさせる(ドニーズ自身の発言もとても興味深いので、ぜひご覧になっていただきたい)。

 自らのヴィジョンに極度に忠実であろうとする一人の老人の姿。彼はこの映画の終盤に差し掛かったところで、「私は喰うのを禁じられたものを描く宿命を背負った人喰い鬼だ」と語る。2001年にその生涯を閉じたが、この映像作品は20世紀の奇才クロソウスキーその人の印象を決して消えることのない、強烈なものにした。


[追記1] このフレッシャー監督は1982年にも『ピエール・クロソウスキー、霊息(いき)の芸術家』という映画を作っているが、これも機会があればぜひ観てみたいと思っている。

[追記2] 2007年6月2日、パリのポンピドゥー・センターでのクロソウスキー展の開催中(展示は4日まで)、この監督のドキュメンタリーPierre Klossowski, l'éternel détour(ピエール・クロソウスキー、永遠なる迂回)を観る機会に恵まれた(このタイトルは当然、ニーチェの「永遠回帰l'éternel retour」に引っかけたものだ)。これは上で取り上げた映画のロング・ヴァージョンで、『イマージュの作家』が50分ほどだったのに対し、倍以上の長さがある。上映前に監督本人による短い紹介があった。この『イマージュの作家』は、もともとフランスのテレビ局France3の作家ドキュメンタリーシリーズ《Un Siècle des écrivains》のために作ったそうだが、翌年に編集しなおして長い方を作ったのだそうだ。最初は、ドニーズがロラン・バルトと連弾をしている映像もあったそうなのだが、それは紛失してしまって奇跡でも起きない限り出てこないだろう、などという実に残念なエピソードもあった。  映画は『イマージュの作家』と同様、本人やドニーズ、アラン・アルノーなどのインタビュー、映画『ロベルト』、生前の映像や写真などをふんだんに使いながら進んでいくが、短いヴァージョンでは完全にカットされていた、息子マチウの撮影したプライヴェート・フィルムが何度も使われ、これもとても興味深かった。家族や友人たちとのリラックスした会食風景などを見ると、クロソウスキーの軽妙なエンタテイナーとしての面も浮かび上がってくる感じがする。DVDでの発売がなされることを切に望む。(2007年6月)


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