東京大学大学院総合文化研究科

言語情報科学専攻

Language and Information Sciences, University of Tokyo

東京大学大学院総合文化研究科

言語情報科学専攻

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言語態分析演習IV(さかしまな都市のモダリティー ― ロマン主義からモダニズムまで)

  • 科目コード(修士): 31M200-1040S
  • 科目コード(博士): 31D200-1040S
  • 開講学期: S1, S2
  • 曜限: 月(Mon)3 [13:00-14:45]
  • 教室: 5号館 515教室
  • 単位数: 2.0
  • 担当教員: 大石 和欣

授業の目標・概要

 都市を歩く人びとの意識は多様性に富んでいる。遊歩者(フラヌール)はもちろん、旅行者、通勤する人びと、買い物をする人びと、楽しげな家族連れや恋人たち、ほろ酔い加減のサラリーマン。それぞれがそれぞれの想いを抱えて、都市の空間を横切っていく。彼らの意識はそれぞれ異なる都市の風景を認識し、記憶し、時間の経過とともに、パリンプセストのように心が留めおく印象を次々に塗り替えていく。意識の流れの水面には、視覚から聴覚、嗅覚にいたるまでの感覚がとらえた景色が輝くように反射したかと思えば、いつのまにか粉々の断片となって水底に沈みこんでいく。時代に漂う歓喜と不安をともに抱え込みながら。そう、ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』の主人公が、第一次世界大戦後のロンドンで、光と影の交錯する夏の一日を意識のなかにとりこんだように。
 しかし、遊歩を禁じられた人びと、居場所を失った人びと、公衆の寄り集う空間から疎外された寄る辺なき人びと、愛することも、愛されることもない流民たちにとって、都市の空間はどう感受されているのだろうか。それは実存的な空間認識でもあろう。生から死へと向かう時間軸上で、目的地を見出せないまま漂う精神にとって、都市の空間はどのように認知されるものなのだろうか。この授業ではそんな疑問から出発して、社会的疎外下にある人びとのまなざしと身体が捉える都市の表象を、近代イギリスを中心とした文学のなかに辿っていく試みをしてみたい。疎外意識をもった彼らにとって、消費の空間、労働の空間、日常生活の空間としての都市は、文学という虚構のなかでどう認識され、表象されるのであろうか。産業化し、資本を蓄積していく工業都市は苦しい労働空間以上のものになりえるのだろうか。植民地への覇権を強化していく十九世紀イギリスの帝都には、どのような闇を措定すべきなのだろう。リスぺクタブルな中流階級の文化から落ちこぼれながら、懸命にそれにしがみつこうとする人びとにとって、都市の風景はどう歪曲したものとして見えるのだろう。
いわゆる都市ルネッサンスを十八世紀末から経験したイギリスの都市は、十九世紀にはいると産業化とともに大きく変貌していく。鉄道敷設、道路拡張、都市住宅の開発と郊外化、そしてスラム化。都市インフラの整備と不動産市場の活況は、巨大な帝都ロンドンを構築し、近代化すると同時に、都市空間をカオス化し、その内奥に深い闇を抱え込んでいく。貧富の格差拡大とともに貧者の怒りと不満と絶望は高まりながらも、抑圧されたかたちでその暗い闇に飲みこまれていく。そこにはベンヤミンが標榜したフラヌール言説では透徹できない空間が沈潜し、またフーコーが提示する中央集権的な不可視の権力さえも飲みこんでしまうようなブラックホールが浮遊している。そこに押し込まれた意識と身体が都市のなかを彷徨うとき、都市はさかしまな相貌をさらけだす。放浪、漂流はロマン主義的なトポスであるというより、管理され、可視化され、浄化されていく近代都市の権力への抵抗でもあり、フランスのシチュアシオニストたちが試みたように、偶発性のなかでの現象学的空間・時間認識でもあり、さらにいえば、秩序立てられた時空間を倒錯させる反逆的かつ創造的な行為でもあろう。近代化の光輝く表層に覆われてしまった闇が逆説的に照らしだす都市の風景は、倒錯したものでありながら、不可視の時代精神を投影する鏡像であり、銀幕になる。
ロンドンの群衆のなかに孤立する乞食をとらえたウィリアム・ワーズワスの詩片からはじまり、ディケンズ、ギャスケル、サッカレー、ギッシングなどのヴィクトリア朝小説に描かれた犯罪のアジトから遊興施設、スラム街まで、さかしまな都市の言語表象を丁寧に考察し、闇を描くホイッスラーやドレの都市表象を眺めながら、最後はその延長線上に都市に居場所を確保しようとしながらカオスのなかで流され、沈んでいく下層中流階級の都市認識をE. M. フォースターが造形した『ハワーズ・エンド』のレナード・バスト、ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』に登場するセプティマス・ウォーレン・スミスおよびミス・キルマンに追ってみたい。
広範囲の作品を扱うが、授業では抜粋部分(20ページほど)を中心に原文での精読を軸に議論する。テクストの読解から浮かびあがってくる風景のモダリティーを分析していく。

授業のキーワード

  • 都市
  • ロマン主義
  • ヴィクトリア朝
  • モダニズム
  • 文学
  • 移動
  • 空間
  • 時間
  • イギリス

授業計画

1 「悲哀の徴」(‘Marks of woe’)
ヴィクトリア朝期のロンドンに至る前提段階として18世紀末から19世紀初頭のロンドンについて、短いロマン主義の詩片および散文を分析しながら都市を歩く際の風景、都市の表象の問題について考えてみる。

ウィリアム・ブレイク 「ロンドン」
ウィイリアム・ワーズワス 『序曲』(抜粋)
チャールズ・ラム「ロンドン」

2 「世界の黙示」(‘An apocalypse of the world’)
海外貿易の進展とともに発展していくロンドンであるが、その内奥には闇が広がっていくことにもなる。ド・クインシーの『阿片患者の告白』に描かれたオックスフォード・ストリートは、やがてヴィクトリア朝期に顕著になるスラム化の徴候を暗示している。メアリ・シェリーの『最後の人間』はその一方で、1830年代のコレラの発生など疫病の流行を契機とした都市の破壊・破滅という不安を先取りしていると読むこともできよう。破滅を内包した都市の姿を抜粋から精読してみたい。

トマス・ド・クインシー 『阿片患者の告白』(抜粋)
メアリ・シェリー 『最後の人間』(抜粋)

3 犯罪の迷宮
ヴィクトリア朝時代になって都市の人口は急速に増加していく。それは同時に貧富の格差拡大と犯罪増加の過程でもあった。ディケンズの『オリヴァ―・トゥイスト』はヴィクトリア朝ロンドンを読むときのスタンダード・テクストでもあるが、オリヴァーが取りこまれてしまうユダヤ人フェイギン率いる窃盗団は、どのような都市のモダリティーを提示してくれるだろうか。

チャールズ・ディケンズ 『オリヴァー・トゥイスト』(抜粋)

4 「混濁」(‘muddle’)の労働生活空間
いわゆる産業革命の結果、都市には田園地域から人口が流入して工場労働者が増加していくことになる。産業資本中心の経済構造、社会構造を支える功利主義のイデオロギーを批判したのがディケンズの『困難な時代』だが、犯罪者として扱われ、労働者の共同体からも疎外された登場人物スティーヴン・ブラックプールが口にするのは「混濁」(‘muddle’)である。産業都市の形容として「混濁」はどのような意味を持ちえるのか考えてみたい。

チャールズ・ディケンズ 『困難な時代』(抜粋)

5 怒りの爆発
産業都市の確立は労働者たちの不満と怒りの集積の過程でもあった。産業都市となったマンチェスターでもストライキや労働争議は日常茶飯事に起きる。労働者の劣悪な生活環境については、エンゲルスが警鐘を鳴らしたように大いなる改善が求められていたことも確かであり、実際に多くの慈善活動を通して救済の手が差し伸べられていた。ユニタリアン派牧師の妻であったギャスケルの処女作『メアリ・バートン』には、そうした労働者階級の都市生活環境がつぶさに描かれ、資本家の息子を殺害するジョン・バートンと彼を信じる娘のメアリの憤懣と家族愛を軸にストーリーが展開する。先駆けて労働者階級を主人公に彼らの怒りと産業都市生活の窮状を描いたという点では画期的な作品であり、その意義を抜粋とともに精読してみたい。

エリザベス・ギャスケル『メアリ・バートン』(抜粋)
フリードリッヒ・エンゲルス 『イギリス労働者階級の生活』(抜粋)

6 闇の美学
都市の発展とともにその内部にひろがっていく闇が絵画の領域においても表象されていくことになる。都市の夜を黒によって描いたジェームズ・アボット・マクニール・ホイッスラーの『夜想曲(ノクターン)』は、新しい色彩感覚を都市表象に持ち込むことによって闇の美学をキャンバス上で確立したといえよう。ホイッスラーの絵はラスキンとの訴訟事件へと発展することになるが、アトキンソン・グリムショーの絵画が示すように、夜のロンドンは新しい美学的価値を19世紀に付されてゆくことになった。その美学は、まばゆい金色の資本が彩る都市の影に潜む貧困を抱えながら、不安かつ不穏なガス灯の光に包まれている。ギュスターフ・ドレのロンドン表象はその意味で重要であろう。ダンテの『神曲』のモチーフを借りながら醜悪な貧困を視覚化していくことで、いびつな闇の美学をつくりだしていくことになった。ボードレールやベンヤミンを横目にその美学を考えてみたい。

ジェームズ・アボット・マクニール・ホイッスラー 『夜想曲(ノクターン)』
ギュスターフ・ドレ『ロンドン巡礼』
アトキンソン・グリムショー(Atkinson Grimshaw)『ハムステッド丘の上で』など
シャルル・ボードレール『悪の華』、『パリの憂鬱』

7 脆弱なユートピア
スラム化と歪曲化を加速してく都市への不安と失望は、ヘテロトピアとしてのユートピア願望を増長させるのは必然ともいえよう。ヴィクトリア朝半ばから都市に建てられていく聖俗両方のゴシック建築は、この時代に流行する中世主義、中世趣味の一局面であり、それは産業都市とそれをささえる功利主義、リベラリズムへの批判・反動を原動力としつつも、過去を理想化し、夢想し、都市の内部に広がっていく闇を蔽うピクチャレスクな試みでもある。ユートピア言説の背後に根差す都市の闇をえぐり出してみたい。

トマス・カーライル 『過去と現在』(抜粋)
ウィリアム・モリス 『ユートピアだより』(抜粋)


8 虚栄のロンドンを彷徨う
サッカレーの『虚栄の市』に登場する主人公ヴェッキー・シャープは、身よりもなく、資産もなく、自らの容姿と才気のみを頼りに、生き抜こうとする。彼女の目には帝都ロンドンはどのように映っているのだろうか。安定した資産と生活を追い求めながら、男性遍歴を重ねるヴェッキーにとって、繁栄する都市は欲望と野心のるつぼであると同時に、目的地に着くことなく永遠に自己を脱構築しつづけなくてはならない流浪の空間であったのかもしれない。国内外から多様な人びとを呑み込み、そして輩出していく19世紀半ばのロンドンの風景をヴェッキー・シャープを通して考えてみる。

ウィリアム・メイクピース・サッカレー 『虚栄の市』(抜粋)

9 都市のパラドクス
世紀末になると、帝都として殷賑を極めるロンドンの裏側には貧困を抱えたスラム街と犯罪がますます存在感をまし、都市の風景に重い翳をなげかける。品位ある生活空間、美的生活空間が、裏側から忍び寄るそうした翳を帯びてゆく過程を、スティーヴンソンやワイルドの小説を精読しながら考察する。

ロバート・ルイス・スティーヴンソン 『ジキル博士とハイド氏』
オスカー・ワイルド 『ドリアン・グレイの肖像』(抜粋)

10 流謫の郊外生活
ヴィクトリア朝の都市生活を語る際に無視できないのは郊外の発展である。都市内部の不衛生な生活環境からまっさきに富裕層は郊外へ抜け出していき、中流階級、下層中流階級がその後をおって郊外へと脱出する。空気が清浄で、庭があり、ピクチャレスクな生活空間を確保しているはずの郊外住宅地だが、実は孤立と疎外をもたらす空間でもあった。都市内部からの移住者のみならず、地方から流入する人口も呑み込み、際限なく広がる郊外には、旧来の教区やコミュニティは不在であり、人びとは常に移動しつづける流浪の住民になっていく。それらを郊外小説のなかに読みこんでみたい。

ジョージ・ギッシング『女王陛下即位50周年祭の年に』(抜粋)
グロウスミス兄弟 『無名士の日記』(抜粋)
アーサー・コナン・ドイル『四の署名』(抜粋)


11 どん底の人びと異者
ジャック・ロンドンが1902年に著した『どん底の人びと』は、彼が実際に体験したイースト・エンドのルポルタージュである。貧困下の人びとにとっての都市生活の風景がつぶさに描写されている。一方で、ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』においては、トランスヴァニアからやってきた「異者」としての吸血鬼が、ロンドンの都市に出没することになる。二種類の疎外者にとっての都市のあり方について考えてみたい。

ジャック・ロンドン『どん底の人びと』(抜粋)
ブラム・ストーカー『ドラキュラ』(抜粋)


12 モダニズムのなかの疎外者
都市のコスモポリタニズムとエリートの文化を体現するモダニズムであるが、そこからこぼれ落ちて行く悲しき存在を無視しているわけではない。モダニズム文学に描かれた都市は、こうした落ちこぼれたちにとってどのような空間として認識されているのだろうか。これまでみてきたヴィクトリア朝期の倒錯した都市の姿の延長線上に、フォスター『ハワーズ・エンド』のレナード・バスト、ウルフ『ダロウェイ夫人』のウォーレン・セプティマス・スミスおよびミス・キルマンを置いて、彼らにとって都市空間がどう描かれているかを考えることで、19世紀におけるさかしまな都市のモダリティーが行き着いた終着点をみてみたい。

E. M. フォースター『ハワーズ・エンド』(抜粋)
ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』(抜粋)
T. S. エリオット 『荒地』(抜粋)


13 まとめ

授業の方法

毎回、抜粋20頁ほどの抜粋を課題として読み、コメントを提出。
授業では発表担当者のプレゼンと各自のコメントに基づきながら議論を展開します。

成績評価方法

毎回のコメントと出席(欠席・未提出の場合は5点減)55%、発表30%、最終レポート15%。

教科書

抜粋部分については教員から指定もしくは配布します。発表の際には対象作品を通読することが求められるが、その場合はテクストを図書館あるいは購入を通して確保、読了をお願いします。

参考書

授業内で提示します。

履修上の注意

広範囲の作品を扱いますが、授業では抜粋部分(20ページほど)を中心に原文での精読を軸に議論します。テクストの読解から浮かびあがってくる風景のモダリティーを分析することが主な目的です。そうしたテクストの精読の上で、歴史的、文化的な事象を把握していければと思います。毎回の課題文献をきちんと読み、コメントをお願いしたいと思いますので、そのつもりで積極的な参加と履修を期待しております。